京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

おんな寺

 洛北、高野川の流れを遡った若狭街道沿いの山間にひっそりと静まりかえる里―大原。寂光院はその大原の草生の里の楓葉そよぐ石段の上に、あたかも世を捨てた比丘尼のようにつつましく竹んでいる。今でこそ、訪れる人の絶えないこの里は、『平家物語』の昔、都から遠く隔った山間の僻地でしかなかった。平清盛の娘、高倉天皇の女御であった建礼門院徳子が、壇之浦の合戦で一族ことごとく滅び去った中、自ら入水したにもかかわらず助け上げられ、この寺へ身を寄せた悲話はあまりにも有名である。
 黒髪を落とし、世間の好奇の眼差しから逃れるように、この山深い里に隠棲したとき、徳子はまだ29歳の若さであった。跡を追って出家した二人の待女にかしずかれ、一族の菩提を弔う女院の念仏と読経の声が槍を渡る風の音に混って朝な夕なに仏間から流れた。
 それはときには運命を政治にもて遊ばれた女の嘆声であり、またときには子を思慕してやまない号泣であったかも知れない。移り住んでただ一度、女院の胸を騒がせたでき事が起った。後白河法皇の訪れである。後白河院は最初平家と手を結び、時節到来と見るや源氏に平家追討の命を下した張本人。女院にとっては敵ともいえる相手であった。しかし、この佗しい山里の寺で、憎しみ合うにはあまりにも二人の感慨は深く、大きすぎた。女院は年老いた法皇を前に、過ぎた日のこと、生きながら地獄と極楽を垣間見たことなどを語り、ともに涙を流した― 『平家物語』は伝えている。
 女院は建保元年(1213)、57歳で波乱に富んだ一生を終えた。寂光院には建礼門院自作の椿像(紙の張り子の像)が残されている。そして、その像は、女院の子・安徳天皇の書き捨てた反古紙で作られてある。亡き幼児のはじめて手習いした反古紙で、親の像を作った母の優しい思いやりは尼寺ならではの美しいエピソードに違いあるまい。また大原の三千院に向かう細い道の途中に実光院という簡素な庵がある。ここもまた尼寺で、枯れた離垣を通して、声明が聞こえる。

 直指庵の名が広く知られるようになったのはごく最近のことである。寺の歴史は江戸時代の初期に、黄檗宗の独照禅師がここに庵を結んだのが始まりといわれるが、その後庵主を欠いたこともあるらしい。松尾芭蕉はこの寺を訪ねた折、〝留守の間に 荒れたる神の 落葉かな〟と一句詠んでいる。
 幕末の頃、勤王の志士たちと交流のあった女傑・津崎村岡が隠棲し、88歳になるまで余生を送り、庵を保ったが、その後は住む人とてなく、狐や狸の住みかとなるほど忘れ去られ荒れ果てていた。しかし、現庵主の広瀬順尼が、15年前に住まいしてから、いつ
しかこのちいさな茅葺きの庵を訪ねて、北嵯峨野の竹林をたどる若い女性の姿が跡を絶たなくなった。
 心の開けた庵主の人柄もさることながら、「想出草」と名づけられた備え付けの大学ノートに、人に打ち明けられない悩みや、ふと心に浮かんだ詩句などを書きつけられることが、現代の若者の心を惹きつけたのであった。「想出草」は庵主のアイディアで数年前から備え付けられたもの。いまではその数も1000冊を越えるという。失恋・家出・自殺・尼さん志願…さまざまな悩みや思いを「想出草」に書きこみ、あるいは老いてなおカクシャクたる庵主に打ち明け、さっばりした顔つきで帰る若者たちの姿が、いつしかこの寺に「泣き込み寺」という別名を与えることになった。
 「泣き込み寺」は現代の中に甦った尼寺といえそうである。
 直指庵のある北嵯峨は、また昔ながらの嵯峨野の自然が最もよく残されているところでもある。南北朝時代後宇多上皇によって院政がとられた大覚寺を中心に、大沢の池、広沢の池がさながら兄弟のように並びひなびた石仏群が時代の流れを忘れたかのように佇んでいる。なんの飾り気もない嵯峨天皇陵、そのゆるやかな丘陵を登れば、遠く京の町並が需にかすんで見える。この地をこよなく愛した嵯峨天皇にちなんで、嵯峨野の地名が生まれたといわれるが、帝はまた大覚寺離宮を造営されたこともある。桜や紅葉が四季折り折りの彩りを野辺にそえる中で、宮びとたちは大沢の池に舟を浮かべ、観月の宴を催したり、車座になって楽を奏で、詩歌を詠み嵯峨野の風雅を満喫した。
 嵯峨野の美しさは竹の美しさにある。直指庵の境内には小柴垣の向こうに青々とした孟宗竹が生い茂り、その美しさは嵯峨野一といわれている。

 華やかな都びとの生活も、一装を返せばただ空しく費え去る一時の夢に過ぎない。それに気づいて都を去った悟りびとたちの隠棲の庵がそこここに残る嵯峨野。奥嵯峨の祗王寺もそのひとつ。ここに移り住んだ世捨て人が、若く美しい白拍子であったことが、今も京都を訪れる多くの人びとの足をこの藁葺きの小寺へ向かわせるゆえんである。平清盛の寵愛を受けた舞の名手白拍子の祗王。しかしある日、突然、館に現われて、清盛の前で今様を舞ったうら若き白拍子・仏御前にその愛を奪われてしまう。そればかりか、逆に仏御前の病いを慰めるために、その前で舞うことをすら命ぜられる女の哀しみ― 。
 「仏も昔は凡夫なり、我等も遂には仏なり、何れも仏性倶せる身を、隔つるのみこそ悲しけれ…」と唄い舞うのが、裏切った男へのせめてもの抵抗であった。21歳の祗王はそのまま尼となり、母と妹・祗女とともに、奥嵯峨の往生院(祗王寺)に庵を結んで、生ける屍となって念仏三味に明け暮れる。秋風のたったある日、庵の戸をたたく音がして、髪をおろした仏御前の姿が二人の前に立った。「萌え出るも枯るるも同じ野辺の草 何れか秋に逢はで果つべき」と祗王が書き残した歌に胸を打たれ、浮雲のようにはかない一時の栄華を捨てての出家の姿であつた。
 仏御前はこの時、わずか16歳。その後は四人揃って草庵にこもり、やがて極楽往生の本懐を遂げたと『平家物語』は語る。うたかたの川の流れに浮いては沈み、沈んでは浮く桜の花びらのようにはかない古典の中の女たちの物語が草むした孤庵に一層の哀れを誘っている。
 時代の流れに朽ち呆てたこの尼寺を、今日の姿に保たせたのは現庵主・智照尼の尽力によるもの。今年81歳の智照尼はその昔、東京・新橋の名妓とうたわれ波乱に富んだ半生ののち得度して、昭和11年祗王寺の庵主となった。
 木立の多く、なめらかな緑の苔に覆われたちいさな庭を、春は散り桜が、秋には落葉が埋め尽くす。せせらぎの音、竹の葉のそよぎ― 嵯峨野の自然が凝縮されたかのようなその庵の庭は、古典の哀話にふさわしい風情を漂わせている。
 祗王寺からほど近い厭離庵もまた、ささやかな尼寺である。人ふたりがやっと並んで通れるほどの柴垣の小径の奥に佇むちいさな門。そこから先へは入ることが禁じられた尼僧の城。ここは鎌倉前期の代表的歌人藤原定家ゆかりの庵でもある。
 厭離庵の北には先年、得度された作家・瀬戸内寂聴尼が寂庵と称する庵を結ばれている。嵯峨野は昔も今も、女人の激しい情念によって哀しく、また美しく彩られているのである。

王朝のたそがれ

 繊細優美に磨ぎ澄まされた王朝の文化を作り上げたのは、いつまでもなく京洛の風情ゆたかな四季の自然である。だが、摂関政治の確立後は、政治は摂関家専制となり、執政の府は年中行事の儀式典礼の場となった。貴族は門閥と膨大な荘園収入の上に安坐して、豪奢な遊楽生活を送ることができたからである。
 また、この時代は大陸文化の模倣時代をすぎて、日本人に即した国風文化が築かれた時代でもある。その要因は、かな文字の発明で、これによって日本人ははじめて国字をもつことができた。和歌はこのかな文字によって育くまれたものであり、いままでの漢字の不便さをすてて、自己の感情や意志を自由に、的確に表現することができた。当時の貴族にとって、和歌はなによりも第一の教養とされて発達してきたのである。
 延喜5年(905)に紀貫之らによって撰進された『古今和歌集』は、雄々しく直情的な『万葉集』のつたいぶりとは異なり、艶麗で手弱女ぶりの、独特の境地を作り上げた。こうした情趣的で耽美的な気風は散文の世界にまでおよび、多くの女流文学者を輩出していく。
 『源氏物語』の紫式部、『枕草子』の清少納言、そして、和泉式部などと、はなやかな、女性文学の一時代を作り上げたのもこの時代の特色で、当時の王朝文化の特性を多いに物語るものであろう。
 しかし、やがて内乱がおこり、戦乱がはげしくなってい<。
  大空は梅のにほひにかすみつつ
  くもりもはてぬ春の夜の月
 と、春の夜をなまめかしく詠んだ歌人藤原定家も、
  見渡せば花も紅葉もなかりけり
  浦のとまやの秋の夕ぐれ
 と、すさまじい内乱の現実を凝視した斜陽貴族のさめた目があった。
 これらの歌を載せた『新古今和歌集』は、動乱の鎌倉初期に、あやしくも艶一麗に花開いた日本文学の粋である。この中には、王朝の美の極致を詠みながらも、哀れにもくだけゆく王朝のたそがれが、多くうたわれていた。

高山寺

 京の三尾(さんび)という。秋の紅葉の名所である。高尾山神護寺、槙尾山西明寺、栂尾山高山寺である。しかもこの三尾が、一連の高雄にあることから考えても、この辺の紅葉は天下の絶勝であったことは言うまでもあるまい。
 紅葉黄葉の色を鮮かにしてくれるのは、その裾を流れる清滝川あればこそであろう。
 小野郷の桟敷岳を水源として繁茂せる杉林の雨水を悉く蒐め、山間を迂曲すること五里にして終に嵐峡に達する。京洛で一番詩趣画興に富める渓流である。
 その中間に三尾があって河の水を紅にも染めれば黄色にも彩る。新緑のさわやかな時には、水底河床までが緑青碧玉に化す。
 渓谷の水に対する信仰は龍神信仰に連なる。青龍権現は神護寺鎮守神であった。清滝川は青龍権現の化身かも知れない。
 高山寺の歴史は古い。

 本寺の創立は光仁天皇宝亀5年(774)勅願によって華厳宗の寺院として開基された。神願寺都賀尾坊と称したが、後に嵯峨天皇弘仁5五年(814)に栂尾十無尽院と改称。鎌倉時代になって文覚上人の弟子明恵上人(後に高弁と改名、1173-1233)の時、建永元年(1206)11月8日後鳥羽上皇から院庁の別当民部卿藤原長房の筆になる「日出先照高山之寺」の勅額を賜うたので、高山寺の寺号となり、東大寺を本宗とする華厳の道場となる。戒密禅を兼修する浄刹となった。蓋し、この頃に法然上人や親鸞上人によって平安時代の形式佛教は覚醒され、栄西禅師によって洛東に禅苑が設けられ、佛教的革新の気風が大いに起り、やがて白鳳佛教に復旧を見んと精進努力しておる時代であった。高山寺の戒密禅は天台真言両教を刺戟すること極めて強く、洛の内外に亘る新佛教の波涛に強いものがあった。寛喜2年(1230)太政官符をもって高山寺の四至は勅定された。
 そのときの住持、明恵上人は記憶さるべき名僧で、戒律護持の清比丘であった。

 明恵上人は紀伊国有田郡石垣庄の住人平重国の家に生れた。母は紀州の豪族湯浅権守藤原宗重の四女である。8歳のとき母に死別し、父は高倉天皇武者所であったが、源頼朝との戦で戦歿したので、9歳のとき、高尾山神護寺の文覚上人及び叔父の上覚上人を頼みて入寺、釈迦如来を追慕してやまず、東大寺建仁寺にも学びて華厳、真言、律、禅を究め、各地に草庵を結び、専ら修養練行につとめた。空々大空、事々無碍法界を説いた釈尊の声を、身に体した。23歳から34歳の頃までは有田川の辺で革新的な宗理を工夫したらしい。その遺蹟8ケ所は、いま有田川に沿うてある。その代表的な施無畏寺には、明恵上人の自筆書状も残っておる。
 後に文覚上人に招かれて高山寺に入った。専ら修禅持戒に努め、建保3年(1215)山中に練若台を造った。43歳の時であったが、山中なお喧騒であるので、それを避け、栂尾の西峰に、三間一面の小宇を構え、専ら修養の道場とした。常に三時三宝礼釈曼一荼羅をかけて礼賛した。
 建保3年11月25日夜寅刻、天気冷たく冴えて松籟頻りに訪れる中に、閑かに経文を開いて義理を吟味しておる僧高弁(明恵上人の法名)の姿は、佛の外の何物でもなかった。
 ついで山中に羅婆坊、華宮殿、遺跡窟の三草庵を作り、石水院、樗伽山、三加禅を初めとして、縄松樹、定心石等、あらゆる岩石老松を以て座禅の場とした。その遺蹟は、いまも指摘されておる。
 最後に禅定院を建てた。安貞2年(1228)のことであったが、附近に法鼓台の経蔵、持佛堂、禅河院、十二重塔も備え、貞永元年(1232)正月60歳で病死するまでの、草居であった。遺骸は遺弟らによって直ぐその後丘に葬られた。いまの御廟所である。また禅定院は上人の住居として御影堂として、在りし日の上人を偲ぶよすがである。
 明恵上人ほど遺弟から慕われた人はない。それらの草庵あとには弟子喜海等の手で木製卒塔婆が建てられ、師匠の行蹟を記念しようとした。しかし湿気の多い山中のこととて木標は腐朽した。元亨2年(1322)比丘尼明雲等によって、石造の卒塔婆に替えられた。現存する。
 遺跡窟にも12月9日造立で、正面には「篠凡字)遺跡窟元仁隠居之比、時々、詣此窟、坐禅入観、擬西天双輪之石、而立此石」という銘文のものがある。
 紀州における明恵上人の修練や勉学の旧蹟にも嘉禎2年(1236)弟子喜海が本造卒塔婆を建て、記念の標職としたが、朽ちたので康永年間に石造卒塔婆に替えておるが、それも同工異曲の追慕の至情である。明恵上人の人徳は比類がない。

 高山寺は高雄街道―京都から高雄を通り中川郷から周山に出る街道の、左手丘上にある。足を一歩、山内に入れると空を覆わんばかりの楓樹や老杉の境内に、常に清涼の山気が吹く。もと僧坊があったか堂舎があったか、石垣で囲まれた旧址の間を通って、石水院の白壁土塀に迎えられる。低いながらも城郭を思わしめる頑丈さである。次の文書は高山寺文書の一通であるが、さきに神護寺のところで掲げたと同じ時の足利直義の御教書であり、一山衆徒が城郭を構えて新田義貞に与力したことを戒めたもので、中世においては、相当の武力をも貯えておったことが知られよう。
 「楠木判官正成去月二十五日於湊河、令討取畢、新田義貞已下凶徒等、逃籠山門之間、可加誅伐之由、所被成院宣也、依之、差遣討手之処、高尾寺衆徒等令与力義貞、構城瑯云々、早可注申実否、若令同意高尾、不注進子細者、可被処重科之状、如件 建武三年六月十日(花押) 栂尾寺々僧中」
 山岳を城郭として利用するとすれば、このような状況であったろう。戦史の上からも研究してほしい故址である。

 石水院も鎌倉時代初期の高級住宅として、実に見るべき清楚な遺構である。
 もと明恵上人が上賀茂に建てた別所の遺構であるとも言われるし、上賀茂にあった後鳥羽院の御学問所の遺構を下賜されて貞応3年(1224)ここに移した時多少改造したものではないかともいえる。桁行五間、梁間右側三間、正面に一間の向拝を附す。単層入母屋造柿葺。ここの一構に見る透彫の格子や蟇股は、実に精巧を極めており、透彫の極致とも見られよう。
 東の縁側から脚下を洗い流れる清滝川を越えて、対岸の深瀬の山々が錦繍の衣を纏うて、四季折々、朝暮刻々の風尚を見せてくれる。桧、杉、雑木の翠緑が、かくも美観を見せるものとは、知らなかった。紅葉の山に雨雲が烟る白さ。枯葉の相を山禽の弱羽が撫でる鋭さ。禅宗公案であるかも知れぬ。
 更に奥の身舎は、左右の二室に分れる。合掌形の天井裏を見上げてほしい。不思議な天丼板の面を眺めてほしい。
 鋸で引いた板目でない。鉤をかけた滑らかさではない。斧で割った割目ではない。ある古建築専門の博士が、渓川の水で割った割目であると言って教えて下さったことがあった。用材は礫(いちじである。礫の丸太の切目に、少しばかり斧で割目を入れて、渓川に沈めておくと、幾年か幾十年かの間に、割目に渓の急流が浸み込んで行って、少しずつ割目を深めて行き、木を裂いてくれるのであるそうだ。渓川の急流が裂き割った板目であるとか。
 本当かどうかは知らぬが、そう言われて見ると、そうかとも思える不思議な板目である。全く珍しい。無双の天井板ではないか。
 ここに春秋をくらした明恵上人は六波羅探題北條泰時に召されて、政治の要諦を説き、無欲悟淡を教えた。その他衆人の聞法受戒に参集するものが彩多であったことは、冷泉定家の『明月記』にも記しておる。建礼門院徳子が上人から受戒したことは有名である。
 明恵上人の最も心を痛めたことは、承久合戦のため、宮方に忠勤をつくした公卿以下に戦死者を出したので、その未亡人を如何にして救済すべきかであった。上人は彼女らに説いて、亡夫亡父兄の菩提のために、経巻の謹写をすべきを勧めた。いま尼経と言って、女性の筆になる小文字の経巻が、多数、本寺にある。
 その一人に中納言中御門宗行の後室戒光尼もあった。貞応2年(1223)西園寺公経に請うて古堂を麓に移し、善妙尼寺と言った。高山寺本堂の半丈六釈迦像を請うて本尊とした。佛師快慶の作であると言われる。
 貞永元年(1232)上人入寂。尼僧は悲嘆の余り、上人の菩提のために、華厳経を書写した。55巻ばかり現存し、善妙尼寺経と言われる。その奥に「願以此経書写功力、生々世々。受持不忘、大師和尚不離暫時、在々所々値遇奉事」という追慕の至情が謹書してある。
 明恵上人は非常な美男であった。その美貌を慕うて来山する婦人の多きを嘆いて、自ら片耳を削り取って醜面にしたとも言われる。
 明恵上人が松の樹の枝に禅座を設けて合掌静止せる肖像画は有名なものであるが、それがさきにも言った縄松樹の座禅像であるが、これは上人の半面像で、削った耳の方は隠されておる。

 明恵上人は茶道史の上からも有名である。栄西禅師が宋に渡って彼地の禅苑等に行われておった喫茶の風あるのを見て、養生延寿の仙薬として喫茶の術を普及した。そのとき宋から持ち帰った小壺に入れた種子を、道友の明恵上人に分与したので、上人は栂尾の深瀬山三本本に播いた。後にその苗木を宇治にも移植した。宇治茶も有名になったという。その容器は柿帯(かきのへた)という銘がある。宋窯の鉄釉の上品なものである。高山寺に尚蔵されてあるのを拝見したことがある。さもあろうと思う。
 また明恵上人は、実に珍しいことを記録しておいた。それは毎夜に見る夢を何年かに亘って丹念に記し留めておったのである。「夢の記」と言われて斯道ではとても珍重に取扱っておるものである。常に春日明神や神鹿をよく夢中に拝しておる。
 自分の夢を多年に亘って記録したという文献は、滅多にあるものではあるまい。世界唯一の珍書であるというよりも、人間というものの「心」の記録として、世界唯一の尊重なものではなかろうか。
 「夢の記」によって「夢」とは何ぞや。人間は何故に夢を見るものであるかを、調査研究してほしい。人間研究の絶好の資料ではあるまいか。
 どうして哲学者は、この「夢の記」を無視しておるのか。少し叱りつけたいような気がする。
 明恵上人についてもう一つ言っておきたいのは、上人の花押のことである。それは上人の花押に明らかに梵字が含まれておることで、わが国の花押は平安時代初期藤原佐理のもの以下、歴代の天皇を初めとして、皇親摂関家大臣大納言以下の公卿から、平清盛源頼朝以下の武家は勿論、学者芸能人僧俗商工業者農民町人百姓まで、すべての人々が持っておったが、梵字の含まれておるのは、明恵上人と日蓮上人との、唯二人しかない。思うにこの両上人は、当時の佛教をもって足れりとせず、直接印度の梵語について研究し、釈尊の声を直かに聞かんとされたのであろうから、梵経の研究に努められたが、その熱心の一端が、この辺に現われておるのではなかろうか。

 高山寺に詣ずる人の殆どは、鳥羽僧正の筆と伝うる白描の鳥獣戯画に心を奪われて、これを見ることに満足して帰るのであるが、鳥獣戯画は、高山寺の宗教には何らの関係はないのである。たまたま寺の什宝として伝来したにすぎないものであって、寧ろ外道の宝物にすぎない。
 それに最も心を注いで来往する人を、悪いとは言わないが、寺家はそれよりも明恵上人の法徳を慕うて来る人々のために、何かを考えてほしい。
 高山寺には、もっと凄い寺宝があり、もっときびしい宗教がある。華厳の道場である。もう少し真剣に寺を見てほしい。佛教を守ってほしい。

桂離宮

 中国の人ほど美しい世界を想定した国民はあるまい。中国の文人ほど文字を巧みに使った文人はあるまい。中国の詩ほど漢字を奇麗に使い分けた文学はあるまい。

 それは一に漢文字の湧き起す芳香のためかも知れない。形象によって発明された文字のおかげで、文字を陳べることによって、絵画で描いたと同様の雰囲気が出せるのであるから、素晴しい文学作品が出来る。文字は単なる音符ではない。物象を伝える色彩なのである。物象だけではない。その内心、その作用までをも示す魔法なのである。

 その上に中国音がよい。漢音は少し冷たいが、呉音や唐音に到っては、実に柔かい音感を持つもので、聞いておると毛氈の上を歩いておるような気になる。

 例えば、月を表現するに月宮殿といったり、月面を見て、桂樹の傍に兎が餅を搗いておると見立てて「月兎」「玉兎」という言葉を発明したり、天変地異にみな人情を通わせて、慈雨猛風と表現したりしておるのは、世界の中で、中国を措いて外にはあるまい。

 中国の詩人墨客が、如何に天地万物に心を通わし、それを美化し、それを楽しんだか。虹を霓裳羽衣とはよくも形容した言葉かなと、ほとほと感心さされる。よくも選んだ文字かなと頭が下がる。

 妙な事を書き出したのは「桂」という地名に、文字に、ある私の夢が、詩が、趣が、宿るからであり、何となく「月の桂」という連想が湧くからである。桂という文字が、そのイメージが、桂離宮にどれだけの錦裳繝衣となって、日本人の心を掴えておるだろうか、を想うからである。

 修学院離宮桂離宮とを並べて見ると、その内容の実際ではなく、この名称だけで、前者に何となく思索的な貴族的な気分があるとすれば、桂には、何となく明快にして静けさ、親しみやすさが想われるであろう。

 桂の離宮には、月光の清自純潔さが漂うかに思念するであろう。

 豊臣秀吉はその内心に、何となく翼々たる弱さがある。その素性についての弱さであろうか。少年期の学問不足に悔いを感じておるのであろうか。それとも本能寺の変で、思いがけなく一瞬にして天下人の大道が歩けた幸運に対する反省、不安であろうか。

 思い切って大きな事を企てるやに見えるけれども、図外れた華美を打ち出して見せるけれども、それは、半面、自分の弱点を覆わんとする煙幕かも知れない。案外に戦々競々たる日常ではなかったか。

 謂う意味は、小心翼々ということよりも、自分の四方周囲に向って、用心充分であったという意味においてである。秀吉ほど、用心深い人はなかったのではないか。智恵の廻りの速さ、感の鋭さは、群雄を畏服せしめるに充分であった。

 決して磊落、野放図、出鱈目の男ではない。

 彼は考えた。

 秀吉は後陽成天皇の皇弟智仁親王を自分の猶子に迎えた。一は親王をその猶子とすることによって、豊臣の家柄を飾ることになるし、もう一つは、若し、若し、若しであるが、不日、皇室と不和の生じた時、智仁親王を奉戴して、義兵を挙げることが出来る―まさか、そこまでは行くまいが、千万一の場合に、挙げ得る準備を完成しておくということは、宮廷を脅すことに役立つからであろう。そこで智仁親王のために相当な所領を奉寄しておいた。

 智仁親王の御邸は今出川通の鳥丸東にあった。今の同志社大学正門の前、京都御所今出川御門」の東側にあった。「今出川殿」と言われた。千宗旦親王家には御出入が叶うたらしく、宗旦の手紙の中にも「今出川殿」云々の句が、幾度か出て来る。

 然るに今出川殿の身上に大きな変化が起った。大阪城の落城―豊臣家の滅亡で、天下の覇権は完全に豊臣家の手から逃げて、徳川氏の掌中に移った。

 かくて徳川の時代になってみると、今出川殿の立場はどうなるだろう。

 今出川殿の背後にあった大きな勢力が消え去ってしまった今日となっては、今出川殿は、もう「御用」のない存在であったろうか。たしかに「御用」なき無用の長物であったらしいが、実はそうではない。特に徳川幕府から言えば、目の上の瘤的存在である。

 というのは、徳川氏への政権移行が、一面においては、かなり悪辣であったことは事実である。豊太閤の遺芳はまだ諸大名の上には消え去っていない。殊に東西各地の雄藩中には、徳川氏に心服していないものが多かった。そのとき、今出川殿には相当な財産があることは面倒な事件になるかも知れぬ胚子である。反徳川の大名達が、今出川殿を盟主と仰いで、反江戸の旗を挙げる惧れがないとは言えない。今出川殿は恐るベき怪鬼である。それをして、如何ともすべからざる状態に追い込む必要がある。判り易く言えば、今出川殿の財産を消費してしまう方策を案出することである。

 八條通桂川西の地が相せられた。そこに今出川殿のために別荘を新構することである。桂離宮はかくして出現した。今出川殿はここで八條宮の宮号が与えられた。桂宮家が出来た。

 桂離宮に、そうした隠れたる事情の伏在を考えると、案外に解けることがある。

 それは桂離宮の北半と南半とは全くその景観が違うことである。北半は、度にすぎたほどに岩や石を入れすぎており、何となく混雑多様の趣があるに対して、南半は殆ど石を使わず、樹木も少く簡粗明朗である。庭園観賞家は、これを次のように説明する。

 桂離宮は、巧みに陰陽二元を組合した名苑である。北は元来が陰の方角であるから、わざと木石を多く入れて賑やかな庭に仕立て、南は陽の方角であるから、木石を出来るだけ使わないで、静かにして、もって南北のバランスを取ったものである。陰陽繁素の妙味が充分に含有されておるのである―と言ってくれる。

 しかし、それは離宮全部が、始めから右様のプランがあって構築されたものなれば、あるいは首肯し得る説明であろうが、実は智仁親王の御一代では北半が出来ただけで、未完成のままに終った。それは凡そ元和から寛永の交(1620-)であった。第二代の智忠親王のときになって、その夫人を加賀の前田侯から迎えたので、やっと南半分が出来たのであると言われる。正保2年(1645)の前後である。もう少しはっきり言うと、北半分を造作することによって、智仁親王の財産を遣い果してしまって、どうにも仕方がなかったのを、二代目になって漸く前田侯の財力によって、ともかく完成したのであるということである。

 北半分の造園で、江戸幕府の目的は達せられた。智仁親王の財力は枯渇した。幕府としては、それでよかったのであった。

 洛北詩仙堂石川丈山は一代の間、鴨川を越えなかったことを自慢にしておった。洛中には足を一歩も入れず、専ら洛外で暮したと呼号しておるに拘らず、丈山の作になる桂別荘八景の詩がある。昔、離宮の一室に、この詩8首が板に彫って掲げてあった。少くとも桂別荘の作事に丈山が触れておることは確かである。

 丈山がどういう性質の詩客であったかを考えれば、桂別荘造作の裡面が覗けるではないか。

 もう一つある。

 寛永6年(1629)4月7日智仁親王は51歳をもって帰幽された。その一周忌に当る日の前日、寛永7年4月6日。智仁親王の王子智忠親王は御年僅かに13であったが、その日極めて覚東なき筆致をもって一通の誓約書を書いておられる。宮家を出て勝手に京の街々を出歩かないこと、人の噂を耳にするとも、それに心を動かされざること、人からの忠告、申し出、請託があっても、一切採り上げないことを、生嶋宮内少輔以下3名の宮侍にあてて誓約を渡しておられる。それでやっと二代目の宮として、父親王の後を嗣ぐことが出来た。

 それは八條宮の宮務を掌っておる宮侍なるものが、如何に実力を持っておったかを、明らかに示しておることで、それも、その半面を見れば、生鳴以下の宮侍が、幕府からの附人であるから、幕府の意響に背向いては宮家の相続が出来なかった、という事が含まれておるのである。

 八條宮はこの後もなお、穏仁親王、長仁親王、尚仁親王文仁親王と歴代天皇の皇子が宮家々系を継がれておる。宮家の資財があるからであろうが、それは恐らく極めて微々たるもので、二代智忠親王のときの前田侯が寄せた好意の名残りであろう。

 桂離宮を拝観するとき、前記の歴史を心に挾んで、庭石を踏んでほしい。決して庭石から足を外して、苔を踏むといった不作法をしてはならない。

京都御所と高野悦子「二十歳の原点」

 京都の核とも言える存在は数多くあるが、その代表格の一つが京都御所であることは誰もが認めるところであろう。そこを舞台にした文学作品として、ここでは高野悦子「二十歳の原点」を取り上げてみたい。
 同作品では、様々な場面で京都御所が登場する。主人公である高野悦子が通った立命館大学文学部あった広小路キャンパスは当時、京都御苑を含む京都御所のすぐ東側にあった。彼女は大学1年の時に一人やクラスメートと京都御苑で時間を過ごしている。 

 「御所での話し合い」(1967年4月22日)、「仏語をさぼって御所でのんびりした」(1967年6月16日)「御所で長沼さん、松田さん、浦辺さんと話す」(1967年9月18日)。しかし高野悦子は大学キャンパスとの縁が遠くなり、再び御所について記述するのは大学3年の時である。「御所で一服」(1969年5月5日)、「御所で11時ごろまで話す」(1969年5月17日)、「御所で2回あい、テレを数回」(1969年6月2日)。もはや大学とは別個の存在として京都御所が登場していることがわかる。
 しかし高野悦子「二十歳の原点」では京都御所の詳細について触れられている部分はない。

 そこで、当時の状況に基づいて京都御所の拝観に移ろう。
 その前に注意すべきことが二つある。その一は皇居の周囲が、巾3尺足らず深さ7、8寸の御川溝で囲まれており、これにより、外界と聖地との差格をつけておることである。これが唯一の防禦柵である。余りの貧弱さに頭を傾けるが、考え直してみれば、この御川溝は少しも防禦柵の意を含まず、外界の汚れを内部に入れじとする「みそぎ川」であると思う。
 第二は宮城正面の建礼門である。
 この門は天皇のみが通御される門で、以外の者は通れない。
 それについて考えたことがある。門を開くとか閉じるとかいう漢字についてである。閉の字は門構えの中に戈の字がある。戈は一種の武器であり、鍵であろうから、それを門につければ即ち門は閉じられたのである。ところが開の字は門構えに「幵」を加えてある。門を開けたならば、その門は何人も通れるべきであるに拘らず、通過してはならないと言わんばかりに門の中に「幵」を加えておる。これは通ってはならないという意味であろう。とすれば門を開いた意味が失われる。折角開いたのに通さん弁慶をしては開いたことが無意味になる。―と考えたのであるが、建礼門前に立って建礼門を見た時、先の考えの幼稚さに恥ずかしくなった。建礼門は、よし開いてあっても、只人の通るを許さぬので、そこに一つの柵がある。通る資格のなきものは通さないという厳然たる意味が、開の一字に含まれておるのであった。

 御所の周囲は筋壁練塀が蜒々として繞らされておる。これが御築垣である。築垣の諸所に諸門が設けてあり、われわれは西側北寄りの御清所門を通って内庭に這入る。築垣に沿うて古松老松幾株かが植えられておるが、築垣の自亜に映えた松の下枝が、地を這わんばかりに垂れ下がっておるのは、如何にも宮廷らしく、外界ではめったに接せられぬ清姿であり、これだけでも心が引きしまる。
 御車寄、諸大夫の間、新御車寄の前を通って月華門から紫宸殿の前に出る。今は「ししんでん」と言うが「ししいでん」と言うのが有職よみである。宮城内第一の御殿で、南面しておるから、「なでん」とも言われる。九間四面入母屋造桧皮葺の壮大な建物。南の軒の下に「紫宸殿」の大額がある。賀茂の書博士岡本保孝の筆と言う。
 構造は寝殿造で、中心を母舎と言い、その外側一間通りを廂という。更に外周に簀子を繞ららす。簀子には勾欄を附す。母舎中央に御帳台(高御座)を安置する。その後に賢聖障子と言って、中国古代から漢唐に至る賢人功臣32名の肖像がある。嵯峨天皇の時に始ったとか、宇多天皇の御代に巨勢金岡に描かしめられたとも言う。

 南殿の下は宏々とした白砂敷で、晴明そのものである。南階の左右に左近の桜(東の方)右近の橘(西の方)が植えられており、御殿と御庭は廻廊によって取り囲まれておる。廻廊正面に承明門がある。
 南殿の前になぜ桜と橘が選ばれたか。橘は古来不老の仙薬として重んぜられた霊木であるから、わけも判るが、桜に至っては、全く選ばれたわけが判らぬ。中国風に言うならば梅こそ百花に先立って匂ふ木であるから、聖樹として選ばれて然るべきであり、現に大覚寺寝殿前は左近の梅である。今でこそ、桜は日本の国華であり、大和魂の標職であるかに言われるが、万葉古今集の時代までは、移ろう花として余り重んぜられていない。それがかかる地点に選ばれ植えられるは、不可解という外はない。
 何れにしても、承明門の前に立って南殿を仰視する時の気分は、天下何物にも勝り、神代の神の姿もかくやと思わしめるものがある。
 紫宸殿の中央に高御座がある。天皇此所に臨御して即位の式をあげ給う。
 その左側後方に皇后の御座がある。
 天皇南面して国民に臨まれるので、天皇の左方は東になり、右方が西になる。故にわが国では左をもって右よりも上と考える。左京の方が右京より何となく先であるかに思われるし、左大臣は右大臣より上級である。
 ところがこれを欧州の風習で見ると、右がライトで正しく、左はレフトではずれておる。右党右派は政府党であり愛国党である。左党左派は反政府である過激党である。
 これを中国で見ると、左道、左遷は、好ましからざる意味であり、「その右に出ずるものなし」という言葉は、右をもって最上としておる意味であろう。
 左を上とするか、右を上とするかは、どうして定められ、どうして如上の差が出来たか。
 察するに南面する天皇を中心にして言えば、太陽の出る方角東が左となり、日の没する方角西が右に当る。だから日の出る方を上と考えたのではないか。
 北面して帝王に接する国民から言えば、陽の出る方が右になり、日の没する方が左となるので、右を尊び左を下位にしたのではないか。
 そこに国民が帝王に仕える国と、国民から主権者が撰ばれた国との相違があるのではないか。短言すれば帝王中心か、国民中心か、の思慮の別が左右の上下に、含まれてあるやに思う。

 それについて言及したいのは、雛人形の並べ方である。
 三月の雛祭に際して雛段の上に並べる男雛女雛の、何れを左にし、何れを右にすべきか、の疑念について、私案を提言したい。
 第一、飾る人形が、天皇皇后を象った内裏雛の場合。
 至尊を中央にし、その右(向って左)に女雛をおくベきであって、至尊の左(向って右)に女雛をおいてはならない。何となれば左は右より上なのだから。
 第二、人形が内裏雛でない場合は、その反対にすべきである。それは内裏雛に遠慮する意味をもってである。
 内裏雛は、人形を御殿の中に飾る場合、男雛の冠の櫻が、立緩と言って立っているから判断が出来る。摂政関白以下の臣下は垂親と言って後方に垂れておるのであり、至尊の纓のみは立ててある事が、王朝以来の故実である。

 紫宸殿の西北に清涼殿がある。中殿とも言われ、聖上の御座所である。九間四面入母屋造桧皮葺、東面する。母舎、廂、孫廂、賽子すべて典型的な寝殿造である。母舎の中央よりやや南寄りに、南北5間東西2間の一画があって昼御座とする。中央に御帳台があって聖上出御の座である。その東南隅に石灰壇と言って床を石灰で固めた場所がある、聖上毎朝伊勢大神宮を御拝される所で、庭上の意味をもって石灰を塗っておるのである。昼御座の北に夜御殿があり、天皇寝御の場である。その北に弘徽殿、藤壺があり、皇妃女御の居所である。
 清涼殿の南の一角を殿上の間という。日々出仕した摂政関白以下の奉仕する場所で、中央に4尺の切台盤1脚と8尺の長台盤1脚がある。前者は、関白大臣蔵人頭の食卓であり、後者は、以外の人々の食卓である。殿上の間に昇れる人が「殿上人」で、昇れない人が、「地下人」である。
 中段の東面庭上に2ケ所竹を植える。南寄りにあるのを漢竹台、少し離れて北方にあるのを呉竹台と言う。
 この東庭で四方拝、小朝拝その他の諸儀式が行われた。
 清涼殿の裏庭には萩が植えてある。そこを萩の壺という。宮中にはこの他に、桐を植えた桐壺、梨を植えた梨壺、藤を植えた藤壺等があった。
 少し先を急ごう。

 小御所、御学問所の前を通って御常御殿の東面に出る。老樹、矮樹、潅木に配するに奇岩珍石をもって周囲を飾った池庭がある。如何にも御内庭らしい柔かさと豊かさとが溢れておる。正面東方の一郭の梢を打ち払うて大文字山が正面になるように工夫されている。東福門院の台覧に備えて「大文字」が点ぜられたのであるという一説の生れる場所である。その北に「地震殿」という珍しい小亭がある。万一地震の起った時に、避難される場所で、この小建築には耐震の妙案が工夫されておるらしい。

 小御所の東にもう一つ御池庭がある。借景本位の廻遊式泉水で、池中に中島を作り、橋を架け、石組もあり、西岸の一部は刈込式であるが、他は栗石をもって一面を敷きつめ、それを浜辺と見なし、その周囲は白砂をもってしておるので如何にも広々と見え、寝殿造の建物とよく調和し、品格第一、私の好きな庭の一つである。

 京都御所の東南に仙洞御所がある。仙洞とは上皇の御所の意で、寛永6年(1629)徳川幕府が、後水尾上皇のために御造営したもの。桜町宮又は桜町の仙洞とも申した。御殿は数度の火災に災いされて、嘉永以後再興されなかったので、今、建物なし。しかしその御庭は全く素晴しいもので、折角京都に住むならば、折角京都に来たならば、一度は拝観すべき仙苑である。
 東西約100メートル、南北300メートルの広大なる地域に、大きな池を作り、比類少き奇岩や怪石を配し、老樹古木枝を交え、全く深山幽谷の姿を現わす。そこから園池に出るが、その途中に屈折した石橋があり、その上を藤花の紫で覆う初夏の景観は、誰しもの心を奪うものである。
 北苑は巨石を組んで「真」の山水とし、中苑は滝組を中心とした「行」の体であり、南苑は小田原石を敷いて浜を作り、中島を配し「草」の姿であると言う。
 寛永11年(1634)小堀遠州が庭師賢庭を用いて作庭したと言われておるが、果たしてその所伝を信ずるならば、小堀遠州の作庭技能は全く敬服に値する。
 この池辺に佇むこと一刻、静視すること一刻、小堀遠州が好きになった。
 実を言うと、茶道の先輩としての小堀遠州、華道の先賢としての小堀遠州には、少し、きざなところが見える。現存する小堀遠州の書状は数千通に上るであろうが、その筆蹟を見ると冷泉定家に学びて至らず、その書き振りは、受け取った方で軸物に仕立てて床間にかけるであろうことを予想し、茶室の掛物としても効果を狙ったかの感があり、何となく気取った所が見えるので好感を持てなかったが、いまここで仙洞御所の庭を拝見して、私のさきに述べた感想は、偏見である事を悟った。遠州公小堀遠江守正一氏にお詫びする。
 さてこの庭の一隅に「阿古瀬淵」という一潭があり、紀貫之の旧棲地と称えておるが、むしろそれよりも、御堂関白道長の住居京極殿か、法成寺阿弥陀御堂の苑池ではなかったかと思う。

 仙洞御所の西北に大宮御所がある。寛永年間徳川幕府後水尾天皇中宮東福門院のために造進したもので、大宮とは皇太后又は天皇の御生母である皇妃を言う。もとは仙洞御所と廊下でつながれておったが、嘉永7年(1854)炎上して後は、再興されず、わずかの殿舎を存するのみ。

 京都御所を拝して、しみじみと感ずることは、徳川時代の朝幕関係である。徳川家康が江戸に幕府を構えたことは、足利氏が宮廷近くに幕府を構えて、文弱化した轍を踏まじとする深慮であったろう。その頃、朝幕関係はさまで悪化したとも見えない。
 しかし、足利季世になると、あまりに幕府の腑甲斐なさに、朝臣の中には王政復古を志す者があり、戦国諸侯の中にも、勤王をもって旗印となし、入洛を計る者もふえた。その頃の歴代天皇は「従神武百余代之孫何仁」と自署されることもあって、宮廷内には何となく王朝復帰が偲ばれておった。だから織田信長は右大臣であり、豊臣秀吉は関白であり、徳川家康内大臣であり、前田利家は大納言であった。何れも文官であって、武官ではなかった。然るに徳川家康が幕府を構えると、征夷大将軍を要望した。朝廷はこれを遮れなかった。朝廷の底心に不満があったことは隠せない。その時の家康の実力は絶大であって、例えば紫宸殿を改構しても南面階段3段の低さで朝廷を押えておった。
 ついで、後水尾天皇の御代になって、二代将軍秀忠の女和子が、東福門院となって入内した。その際幕府は種々の策を弄し、後水尾天皇を窮地に追い込んで東福門院の入内に成功した。幸にして、和子の淑徳円満であったために、後水尾天皇の荒々しい珍慮は表面化しなかった。しかし幕府はそれを恐れて、後水尾上皇のために、修学院離宮の造営をはじめとし、御所にも寛永御造営が諸所に見え出した。
 三代家光の時は将軍の威風が天下を風靡したので、宮廷内の不満も屏息するかの外観を見せた。将軍家でも四代五代六代になると、その屋台骨にひびが現われはじめ、何となく天下に勤王の気分が見え出した。
 松平定信光格天皇の寛政2年(1790)に18階段の紫宸殿を造営したのは、定信の勤王の志とあがめることも出来るが、18階段をもってしなければ、朝廷を押圧することが叶わなかった弱音とも見られる。
 光格天皇の御父閑院宮典仁親王太上天皇の尊号を奉らんとする所謂尊号事件に際して松平定信のとった強圧的態度は、却って勤王志士を刺戟することとなり、幕府の衰運を早めたかに見える。一方朝廷においても尊号事件が果たして成功するとは考えておられなかったであろうが、それだけ朝廷にひそかな自信が芽組み出したのではなかったか。
 南殿18階段に関してふと頭に浮かんだ愚見である。

 京都所司代の花押についても一考察が出来る。
 そもそも所司代なるものは、「所司」でなく所司「代」である。所司ならば恒久的の意味を有する役目であるが、代の字があるために、臨時的なものであることを暗示し、不日罷められるべきである役所である。だから朝廷も京都都民も、一時的のものとして、その設置に反対しなかったのである。
 初代板倉勝重、次代重宗父子の人徳よろしきを得たので上下公武の臣庶の信望厚く京都都民を安堵せしめた。板倉父子は親切丁寧に社寺及び街々の行政を指導した。その時に所司代が下知状に自署せる花押の大きさは、5センチ内外で、所司代程度の武士として、普通の大きさである。ところが以後の所司代の下知状を年代順に眺めて見ると、不思議なほど、年代と共にその花押が大きくなり、終に幕末に及んでは、掌大に達し、全紙の三分の一を占めるかに思われる。下知状の用紙は雁皮紙を用い、用墨は紅花墨らしく、墨痕淋潤、日も鮮かである。受取った方はたしかにその威風に押されるかに見える。
 ところがその実際は、もう幕府の屋台骨が揺るぎ出しており、所司代下知の如きも、頓に、及ぼす力を失って無きが如き時点に達しておった。
 威張った外形は、却って内容の貧弱さの反映であった。

 先に述べた高野悦子宇都宮女子高校時代を記録した「二十歳の原点ノート」で京都御所を訪れたことを残しているが、その時のことが書かれていないのは残念である。

 さて、ここで人間文化の発達とは何を言うのであろうか。原始人は自分の努力を、自分のことのみにかける。次に文化が進むと、家族のために努力をかけ、部落のために努力をかけることになる。単純なる原始人が、この段階になると、自分の他に家族部落のあることに気づき、彼らと共に存在すべきであることを知った。次の段階になると、その努力を払う範囲が、漸次拡大されて、民族とか国家とかのために、個人の努力は尽くされねばならぬことを知った。現在は民族とか国家とかの範囲を超越して、全人類のために、という段階に進もうとしておる。

 こうした人間が団結した時点において、最大の威力を示すものは政権である。思えば「政権」という思想的なもので、無形のものを、具象するとすれば、それが帝王である。故に帝王とは他の同族とは違って、同族の上に立って同族に臨み、偉大なものでなければならぬ。そのために帝王の服装住居生活は断然他のものと比して、豪華壮麗であることを要する。人間は外形の美に押される心理がある。これは如何なる民族においても、国家においても、古今東西を通じて現われた「歴史」であった。宮城は一国一族の文化の限りを尽くした一つの表現である。

 東亜の一角に領土を持ったわが国は、至近の土地に「中華」という大先輩を持ったが故に、すべての文化、すべての制度設備を教えられた。わが国史聖徳太子以来、画然として光華を持つに到ったのは、隋唐文化に刺戟され摂収したからである。底津岩根に大宮柱太敷立てた古代宮殿は、藤原京に至って大いに趣を改めた。更に奈良京に至って唐の都・長安に模して構築されることになった。桓武天皇に依って遷都された皇都は平安城と名づけられ、東西8里南北9條に及ぶ宏々たる帝都であった。平安城の中央北辺に、東西8丁南北10丁に亘って宮城があり、その中に皇居及び官府があった。皇居を内裏とも言い、宮城を大内裏とも言うが、ここが政権の中心であり、政治の行われる中軸であるから、その構造は厳然格正たるものであらねばならぬ。内裏の内には紫宸殿、仁寿殿、常寧殿、貞観殿、春興殿、宜陽殿、清涼殿、弘徽殿等が屋根の美しさを競うておった。それらの殿舎の壮美さは、当時のわが国力に比して、不釣合と思うほどの立派さであったろう。国力に数倍する宮城築営に踏み切られた桓武天皇の御軫慮に、今更ながら、敬慕の念を捧げたい。

 日本の宮城に大きな特色がある。
 古代中世の欧州を見ても、中国を観ても、宮城は山上又は山の中腹でなければ、段丘の上に構えられ、国民を睥睨するかの感がある。外見上、如何にも政治権力者の強大さを誇示しておる。
 それに反してわが国の宮城は、都民と同一平面上にあって、決して国民を俯瞰するのではない。ただ、わずかに北高南低の地点を選び宮城を構えたので、都民よりも幾分か高みにあるが、それは決して、都民より隔絶したのではなく、むしろ都民と接近しようという気構えさえ見える。
 かつて一英国人を京都御所へ案内したことがあった。その時「宮城の防備はどうしたのですか、暴徒が乱入すればどこで防ぐのですか」と聞かれて、私の心は歓喜に動揺した。
 なるほど、外国人には京都御所を取り巻く淡々たる和平の気分が、不可思議なのかも知れない。わが国においては、暴徒が宮城を犯すかも知れない不祥事を、予想もせず、帝王と国民との間は、親子の情をもって結ばれておったのであった。これわが国史の千古に輝く栄光ではないか。
 防備なき京都御所と、四周に浬を持つ東京の宮城との間に、大きな相違がある。
 平和郷の宮城―京都御所
 それを第一に心に留めてほしい。
 平安内裏は第62代村上天皇の天徳4年(960)に炎上して以来十数度の火災に遭うたが、源平の争乱、南北両朝の争いのために、終に再建を見なかった。その間、皇居は各地に転々し、それを「里内裏」と言った。
 里内裏はその時に応じて、諸所にあった。閑院内裏、富小路内裏、二條冷泉内裏がそれであり、今の内裏は土御門内裏と言われたものであった。方40丈の小規模のものであった。後嵯峨天皇後宇多天皇伏見天皇花園天皇の内裏となり、後醍醐天皇もここで即位された。南北両朝争乱の時は北朝の内裏となり、両朝合一の後、小松天皇以来は引続いて皇居となっておったが、その後戦乱相続いて見るかげもなく荒涼たるものであった。三條の橋から内侍所の御燈明が拝めたという形容で、その姿を言われておったのである。実はそれほどでもなかったろうが、宮中の御窮迫は極度に達し、その日その日の供御にさえこと欠いたのであった。
 織田信長が入洛すると直ちに禁裏の御造営に着手し、四方6丁町の地子を免じ、それをもって宮中の供御に供した。その信長が造営した紫宸殿は仁和寺に移されて金堂になっておる。正面階段は7段。ついで秀吉や家康によって宮城の周囲が整美され、その時家康は紫宸殿を改造した。更に三代家光が壮観を示すに足るものを建造したので、家康の時のものは今大覚寺に移されて寝殿として残っておる。正面の階段は三段。元来紫宸殿の正面は18階段たるべきを旧規とする。それが3段ではあまりもったいないとして、家光は改造したのであろうが、その遺構がないから明言出来ないけれども、恐らく7段か9段であったろう。
 ただし、ここに一つ注意しておきたいのは、家康の造ったのは、ことによると5段7段9段であったかも知れない。それを大覚寺に移したときに3段にちぢめたかも知れないことである。徳川時代になって度々の火災が折角の御殿以下を灰儘に帰したが、寛政2年(1790)松平定信が平安朝内裏の古制に復して18階段の紫宸殿を造営した。18の数は陽の極数である「九」を、天地に配して2倍したものである。安政元年(1854)炎上したが、その再建に際して寛政造営の旧規のままを踏襲したのが現在の御殿である。

禅定寺

 東海東山北陸の三道、要約すればわが国の東国地方から、もし逢坂山を越えずして(即ち京都に触れずして)奈良に達しようとすれば、どういう道があるだろうか。
 東国から兵を進めて、京に入ろうとした時、瀬田川を塞がれ、逢坂山を閉じられたとするならば、どうすべきか。洛南に兵を廻すのにどうした迂路があるか。
 この二つの問題を解決するのが宇給田原越である。
 滋賀県甲賀郡信楽や水口から田上山の北を通り大石町に出て瀬田川を渡ると、川の右岸に沿うた石山や南郷から南下した道に出る。それから曽東に到り、裏山を越えて醍醐山に出る道と合流する。そこを更に川と離れて西に向えば、宇治田原越になる。峠をすぎれば宇治にも近いし、南下して青谷や井出から奈良に向うことが出来るし、西向して田辺か八幡枚方にも出ることが出来るのである。
 瀬田逢坂を塞がれた時に南山城から奈良への脇道であるが、それだけに軍事上の要路である。
 その峠の中間にあるのが禅定寺で、この峠を一名禅定寺越とも言う。
 古くは壬申乱(39代弘文天皇元年―672)に大海人皇子(後の40代天武天皇)が東行されたとき通過されたとの説もあり、源平合戦のとき、関東からの源軍は、ここを越えて宇治に迫り、河を渡らんとした梶原景時佐々木高綱宇治川先陣争いの場面も、展開したのであった。
 承久乱(1221)には北條泰時が、建武2年(1335)の年末には足利尊氏は東国から軍を率いてこの峠を越え、洛南から京都を窺っておる。近世では、本能寺変のあった時、天正10年(1582)堺にあった徳川家康は、河内から宇治田原に出て、この峠を通って信楽に帰路を求め、三河に無事に帰っておる。
 案外な要路であるが、案外に軽視されており、そこを扼する禅定寺は、それ故に案外に政治的軍事的の要塞であるのに、案外に知られていなかった。初めて訪れたのは大正15年であったが、宇治からここまで約8キロ、徒歩による外なく、通る人は一人もなかった。吉川英治氏が『鳴門悲帖』で、お綱をこの道から走らせたほどの寒村であった。
 禅定寺も荒れ果てて座敷の畳は穴で一杯。僅かに一室だけ、どうにか坐れるように和尚が工夫してくれて、4、5泊が、やっとのことであった。驚くべき多数の禅定寺文書を見出したおかげで、わびしい山寺の淋しさを感じなかった。

 禅定寺の開基は残念ながら不詳である。判ったところだけを記してみよう。
 東大寺別当に平崇という名僧があった。顕密の碩学で、明徳知行兼備の清侶、常に阿字を観じ、毎時、その口から金色の光が出たほどの人であったが、別当に補せられて以来、この光が隠失した。それを慨いた平崇は別当を辞し、懺悔のために私領を献じ一寺を建立。十一面観世音菩薩像を安置して本尊とした。66代一條天皇正暦2年(991)のことで、これが本寺の創潮であるとする寺伝を、古くから寺では持っておる。それについて少し理屈を言うと、平崇が東大寺別当に在職したのは正暦5年(994)から長徳4年(998)であるから、上述の由緒は年代的には合致せぬが、それ以上は、どうにもならない。
 尓来平崇はここに隠棲して修禅に専行したが、長保3年(1001)4月8日田畠を本寺に施入(その施入状、現存する。旧国宝)して後顧の患なからしめる用意を果し、翌年10月7日77歳にして示寂。後山に葬った。
 その資弟子利原上人また法徳熾んにして、よく先師の聖業を守り、先師の時に使用した三石の湯釜を五石二斗の大湯釜に改め、大湯屋を修理し、遠近より来り沐するものの数が殖えることをもって、一に先師に対する供養であるとした。
 その時の寺地は、今より少し奥の西北に当り、桑在郷というところであった。安政年間までその旧址に桑在寺という小寺があった。
 現在のは中興開山月舟卍山和尚の建てる所である。月舟は黄栄の隠元と相並びて、近世当初の有名な禅僧で、加賀国家老大聖寺の本多阿波守政長の出資によったものである。

 それがどうして関白家の所領になるのであろうか。
 東大寺の僧奝然(嵯峨の清涼寺釈迦像を将来した人)が宋から帰朝するや、その将来した文殊菩薩像を摂政東三條殿兼家に寄進した。兼家即ち文殊堂を建立してこれを安置し、宇治田原の住人を撰んで、その香寄人に任じた。その年代に関しては寺伝に少しく不審なところがあるも、天元年間(978~82)のことであったという。
 その文殊堂は禅定寺にあったものではあるまいと思うが、恐らく平崇の頃に、平崇から寺領寄進をうけた禅定寺の方で、その時代の風習に従って寺院並びに寺領を共に摂政兼家に献じてその本所と仰ぎ、寺院寺領の安全策を講じたものであろう。
 かくして宇治田原は東三條兼家からその子の御堂関白道長に、更に頼通に伝わった時、頼通が宇治に平等院を建てたので、宇治田原もその政所の支配下に加えられつつ、頼通から師実、師通を経て知足院関白忠実に伝領された。
 忠実は富家殿関自とも言われた人で、その文字通り、巨額なる所領を所有した大勢力家であった。禅定寺関白とも呼ばれることから推して、忠実は禅定寺に対して非常なる配慮を加え、寺観を完備全整したのではなかったか。
 次にその子法性寺関白忠通、六條関白基実と渡り、ついで普賢寺関白基通と、次第を経て近衛家の所領中にその名を記入される光栄を有した。
 その隣邑であった曽東庄が九條家の所領であったために、今後、常に曽束庄人から脅かされ、境界争を永々と繰り返す運命に見舞われるのであるが、そのことは本稿の埓外に置くこととする。

 禅定寺の創立が上述のように輝かしいものであったとすれば、禅定寺の今後は果してどうなるのだろうか、心配の種になる。ということは、言い改めると、そのようにその出発点を堂々と踏み出した寺院の経営は、将来、安易なことであろうか、それとも本所として侍む近衛家の浮沈に左右されるであろうか。もちろん近衛家のように日本第一の権勢家のことであるから、心配は要らぬかも知れないが、事実は却って、安心のならぬ場合がある。
 元来、宇治田原という土地柄を考えると、奥山の中の僅かに開けた狭い山峡の土地であり、あり余るほどの収穫のある肥沃地でもない。現に当今でも住民は山肌を開いて茶圃の経営に努めておるのであるし、山間地特有の冷気を利用して、柿を植え、干柿(古老柿)を作ることによって、生計を豊かにしておるのである。晩秋に宇治田原に足を入れると、いわゆる柿紅葉の余りの美しさに胆を奪われるのである。
 されば、山林を以てその最大の資源としておる当山においては中古以来、山司職を置いて山林保護に全力を致したのであった。例えば92代伏見天皇の永仁4年(1296)12月日の「寺山禁制」を見ても桧椙類から松椎の類まで、伐採に細かな禁制を設けて、村人は言うも更なり、寺の住侶等までもの盗伐を厳しく戒めておるほどである。
 それでもとうとう〝時〟の女神には勝てない。時間とともに頽運に向い、月舟卍山和尚によりて、やっと型ばかりが残ったのである。
 それは、本寺だけの歩いた道ではない、殆どの寺、と言わず、旧勢力のすべてが、たどらなければならなかった歴史の惨虐である。歴史はあらゆるものを変化さしてしまう。よくもあしくも。

 本尊十一面観世音菩薩の外躯堂々たる巨像。法量九尺四寸。このような雄作が、宇治田原の山奥にあるとは誰が予想し得たろうか。
 貞観佛の俤はなお僅かに残存しておるが、少し緊張感が足りない。と言っても藤原式の円満豊肥さではない。形式化されていない。充分に個性が含まれておる。本寺創立の正暦のものと見るべきであり、下半身の、両脚が衣文から透けて見える軟かさは、佛師定朝の出るまでの作風である。定朝を育てたであろう師匠の神技霊腕である。
 光背が後補であるので、それに見誤られて本尊の秀麗さを見落すかも知れないが、1、2時間、徐かに対面しておると、「定にこれは佛様だな」と心中から湧き出る宗教心を認めるであろう。
 その脇にある文殊騎獅像また同時代のもので、後補の獅子を除けて拝むと、何とも言えぬ清楚さに、シビレル思いがする。
 これほど怜智端正温雅な面相があるものか。これほど整うた目鼻があるものか。唇が少し強すぎるかにも見えるが、これも文殊菩薩の内心の充実を示す標識であろう。
 もし人間の顔が、これほど端正であったなら、人生は淋しいものになるであろう。悲哀なものになるであろう。人相には不揃があり、不整があり、欠隙があるから、人の世は温かいのである。人の世に発展進歩があり、精進があるのである。もし人世が完全なものならば、それはもう極楽世界と同格になったことで、人間界を外れたものであろう。
 別室に安置する四天王は、重厚な上に典雅で、藤原時代の作風を充分に認めることが出来るが、よく見ると四軀一組の四天王ではない。多聞天だけは別組のものである。革鐙の臑当も三軀はやや楕円であるが一軀は円い。胸当も外にふくらんだ曲線であるが、一軀は内に切り込んである。
 その初めからこうした相違を意識して作ったのではなく、別々の二組の四天王が偶然、この四軀一組にされたものであろう。
 先々住が言っておった。明治初年の排佛毀釈のとき、この四天王以下多くの佛像を井戸ばたへ持って行ってゴシゴシと洗い、金箔を剥がし、色彩を流し落し、佛像ではない、本片だ、と言って焼却される難を免れたのであったそうで、この四天王もその罹災者の仲間であったらしい。しかし、今は四軀一体となって、仲よく佛界を狙う悪魔を追い退けんと、怒号挙拳を怠らない、責任感の強い天部である。「たのみます」と言って礼拝したい。
 もう一体見るべきものがある。地蔵菩薩の半珈像であるが、本像はもとここより西二町にあった地蔵渓の地蔵堂の本尊であった。
 左足をおろした延命地蔵で、藤原時代の作であろうと認定されておる。

 本堂前の空地や本堂の横、後背の畑に、もろもろの花草を植えておる和尚の心は、実にゆかしいものではないか。それは本尊以下の供華にするための用意であるかも知れないが、山寺の和尚は、恐らく語るに相手のない毎朝毎夕を、咲き初める花に語り、咲き揃うた花に喜び、萎み行く花弁に心を痛めておったのであろう。
 そうでないかも知れない。邪心に満ちた人間と語らい暮すよりも、無心の草本と交わることの潔さに法悦境を見出したのではないか。
 そのような和尚を羨しいと思う。

 幾十度禅定寺に来たか。その度毎に和尚は必ず前夜に心をこめて焼いたカキモチを食べさせて下さった。
 佛様よりこのカキモチを有り難く思うて参山したかも知れない私に、本尊は少しも罰を当てられなかった。やはり佛様はありがたいものであると信ずる。

円福寺

 「八幡の藪知らず」という諺がある。
 八幡一帯は、藪で満ちておった里である。余りに藪が多すぎて、どちらをむいても、竹藪竹藪で、その外に何物もない。そのために、この里の住人は、却って藪のあることに気がつかない、ということであろう。余りに物がありすぎると、却って、それのありがたみを感じない、という教訓ではなかろうか。
 それほどに多かった八幡の藪も、いまは僅かに円福寺への道に見られるだけで、これもやがて消えてしまうのではないか。
 竹藪の向うの、奥の奥の寺。如何にも禅寺らしいすがすがしい気分で、俗人の心は洗い清められる。都会人の耳には聞えないような藪かげの虫の音も、さやかである。
 「禅」というものは、必ずしもお寺だけにあるものではない。禅の道場とは必ずしも座禅堂でなければならぬというわけはない。円福寺に到る道の、だらだら上りの藪沿いの小道こそ、真の禅道場であろう。私の好きな道の一つ。
 数年前のことであった。美濃の伊深へ行った時、その途中で托鉢修行の禅僧群に逢うた。その時の感激と歓喜と感心とは今も消え去らない。15、6人はおったろうか。一列縦隊に並んだ修行僧が、菅笠、脚絆、紺衣に整然と身を装い、首から頭陀袋をかけ、オーオーと隻手を挙げて歩いておる様子には、改めて心を打たれた。修行僧は、何も考えてないのであろう。自分達の歩いておることさえ、忘れておるのだろう。オーオーと声を出しておることさえ気がついていないだろう。行列の仲間があることも、意識していないのだろう。ことによると自分の存在も念慮にはないかも知れぬ。無心にオーオーと叫んでおる声は、〝無〟の中から声を出しておるのではなくして、〝無〟の中に声を収めようとしておるのであろう。だが果して〝無〟の中に収められるだろうか。一つの大きな公案であろう。
 托鉢禅僧の一列は、京都でも見られたが、いまはもう殆ど見られない、と書いておるいま、思いがけなくも私の門前にオーを聞いた。相国寺の禅僧であろうか。珍しい一瞬であった。托鉢禅僧姿の俳味は淡々たる渋味である。
 それが、円福寺への道で、遇うことが出来るかも知れぬという私の慾であった。
 近世禅界の興隆の一翼は自隠禅師(貞享2年~明和5年)であった。その門下に遂翁、東嶺、提州、斯経のいわゆる四天王がおった。
 円福寺を創立したのはその斯経である。
 臨済宗妙心寺塔頭海福院に修行しつつあった斯経は、大応国師南浦紹明)、大燈国師大徳寺開山)、関山国師妙心寺の開山慧玄)―禅宗で言う応燈関の法恩にむくい、応燈関の3道場を開こうと苦心したが、思うに任せず、黙々としてすごした。後年大阪の外護者が出来たおかげで、八幡にあった天台宗の廃寺を手に入れ、そこを修禅の道場とした。それが今訪ねんとする円福寺である。斯経がこの素懐を果したのは光格天皇天明4年(1784))のことであった。この道場は臨済宗に限らず曹洞、雲門、潟仰、法眼の四宗にも開放し、他山他派の区別を撤廃することを目的とした。まことに時代の要求に適応したものとして〝江湖禅〟とも言われる道場である。
 達磨堂には本像座像、法量2尺7寸3分、寄木造、彩色、玉眼嵌入、頭から法衣を纏い、両手を膝に重ねた座禅三味の大達磨像がある。
 聖徳太子の御作と称する。随分思い切って吹いたものだと感心する。法螺もこの位に吹くと御愛嬌になる。両肩からかるやかに流れる衣文の動き、肥満した肉体の豊かさ、打ち広げた胸、肩や膝の円味が衣文を通して窺える点、すべて鎌倉時代特有の写実的である。もと大和国、王寺にある達磨寺のものであった。寛正年間(1460~5)八幡宮祠官田中氏の邸に移されておったのを、文化4年(1807)当時の住職海門和尚が田中氏の寄進をうけて、本寺に安置したものである。
 達磨大師の像は南宋以来盛んに作られた。その親しみある姿が、わが国の凡俗にも好まれたので、室町初期以来、絵画や彫刻に相当の遺品が見られる。本像はその中でも、最も古く且つ最も傑出した作品である。少しくしかめた眉、大きく見開いた眼光、わずかに閉じた口。如何にも自然であって、しかもその内面に法力の充満した強さがある。この達磨像に会うと何となく嬉しくなって来る。何となく、一緒に坐ってみたくなる。
 本寺には珍しい国宝がある。大般若経六百巻である。多少の後補本もあるが、五百数十巻立派な天平経である。巻首に「薬師寺」の朱印が2個、その下に「坂原庄長尾宮」の黒印が1個。その裏に「薬師寺金堂」の黒印がまた1個あり、紙継目の裏には本版にせる花押が2個押してある。
 南都薬師寺の旧蔵が永正年間(1504~20)大和国添上郡坂原庄の長尾宮に寄進せられ、徳川時代になって大和多武峰談山神社の有に帰し、万治、元禄、嘉永の各時代に修理され、多武峰の社宝として誇りの種であった。
 ところが明治の排佛毀釈に遇うて多武峰から排除され、昭和7年当寺の寺宝になった。宝庫に深く納まっておるが、天平経が、かくも多数、保存されておることは、感謝されるべきである。
 本寺の南数町、山中を行くと「洞ケ峠」に出る。天王山合戦のとき大和の豪族筒井順慶がここまで兵を進め、豊臣秀吉明智光秀との勝敗を傍観し、去就を明かに示さなかった地点として有名な所である。「日和見順慶」「洞ケ峠」という特別な用語が出来た旧蹟である。
 天正10年(1582)6月2日本能寺に主君信長を朴した光秀は、毛利攻伐から軍を返すであろう秀吉を山崎天王山に防いだ。6月13日に合戦があった。
 明智光秀は名将であり智将であった。大和の筒井順慶に手をさしのべておくことを忘れなかった。同時に、秀吉とても、南都を押えておく必要は知っておった。順慶にしても、両雄の勝敗を軽視はしていない。戦勝の針は秀吉の方に動いておる、と早くも見て取った順慶からは、急使が秀吉の方に出された証拠がある。6月10日光秀の使者藤田伝五が筒井城に来たが、順慶の心はもうその時には光秀には傾かなかった。
 だから順慶は洞ケ峠で日和見をしておったのではなく、天王山に敗れたならば南都の方に逃げるであろう光秀を、そうはさせじと、その行く手を阻む役目を帯びたものであった。
 果して光秀は天王山で不利になったから、南方に退き、奈良から生駒山の東麓に廻り私市を経て、枚方に軍を進め、秀吉の背後を突かんとしたのであった。それ故に山崎から南行し、淀河を越えたが、何を思うたか急に方向を変じて醍醐から山科に出ようとして、小栗栖で殺されてしまったのである。光秀の南都入りを阻止すべく順慶が兵を構えておったからであったかも知れぬ。
 洞ケ峠の真相は如上の通りである。日和見順慶では戦国時代のきびしい波涛は乗り切れまい。
 成長株を早く見極めて、それに投資するほどの機敏さを持つ筒井氏は、室町時代以来、大和で、もまれにもまれた大和六党の随一であった。

円通寺

 中秋の夕方、鴨の河原に降り立ちて東の山辺をうち眺むれば、四方の山々みなほの黔きに山の向うにほの白き何物かが見える。まだ姿を見せぬ月影の先駆的な御光であろうか、錦糸で縫い取ったかのように、一本の細い錦布を敷き列べたかのように、東山一帯の稜線を染めなせるかと見る間に、刻々に色増し、やがて一瞬、十三夜の月は山の向うから推し挙げられた。山端に額を出す。その静粛さ、その荘厳さ。その天彩の豊かさ。
 東山から昇る月の光は、来迎阿弥陀如来衆生を引接される時の御光のように、神々しいまでの神秘である。
 もし叡岳の向うから静かに昇る月光を、その神々しさを、思う存分、思う心の幾倍かに、拝み眺めることの出来るところが、あるものならば、一度は行ってみたいと念じた。それがあった。岩倉幡枝(はなえだ)の円通寺である。
 そのような金剛界が現世にあるとは。
 洛北から鞍馬街道を北に進む。松ケ崎の妙法〝山〟というほどでもない標高76mの丘稜を越えると、漫々と水を湛える深泥ケ池に出る。右手、池に沿うて北行すると、木野から岩倉に達する。池の口で左手に取ると、100mほど急坂がある。越えた所が、幡枝という狭い平地であり、それを更に進むと、二軒茶屋から鞍馬に達する。
 もし電車を利用するならば、京福電鉄の「出町柳」から鞍馬行に乗れば「木野」の駅で下車。南行3、400m。そこに大悲山円通寺がある。
 後水尾天皇寛永6年(1629)11月8日俄かに御退位になった。女帝明正天皇の御宇が始った。天皇の御母は東福門院和子であり、徳川二代将軍秀忠の女である。奈良時代から久しく後を絶った女帝の即位をみた。この裏面に、江戸幕府の威風が吹いたであろうことは、言うまでもない。それに対して後水尾上皇は、御不満であったらしい。幕府の身勝手を嬉しくは思召されなかったかも知れない。
 上皇は、いろいろの意味においての「憂さ」を払除しよう、忘れ去ろうとせられ、その一方便として、離宮の造営を志された。
 寛永18年7月の頃から、使者を四方に出して離宮造営の候補地を物色し初められた。上皇側近者の一人であった北山鹿苑寺の住持鳳林承章(『隔萱記』という日記がある。近年出版された)のところにも人を派し衣笠山の方面、金閣の近隣に、それを求めしめられたが、恰適の場所がなかった。正保から慶安の頃になると、方面を変えて、東山叡山麓方面に求められた。高野川から岩倉山の一帯に恰好の土地を探索せしめられた。岩倉村の中に長谷殿(ながたにどの)岩倉殿といわれる御茶屋を設けて、一応の足溜りとして、それから周辺の景勝地を巡覧された。長谷殿へは正保4年(1647)10月6日、岩倉殿へは5年2月21日が、最初の御幸であった。それについで幡枝方面へは慶安2年(1649)9月13日玉歩を初めて印せられた。
 この日晴天にして暖気春三月のようであった。長谷殿へ御幸の帰途、幡枝へ御立寄り、名月観賞の御会を催された。山の中腹にある御茶屋へ登られ、そこで供奉の公卿達と御物語があり、この土地が頗る御意に叶うたらしい。明暦3年(1657)3月22日にも上皇東福門院御同伴でここに御幸。一夜御逗留。翌日鹿苑寺の承章以下をお召しになり、上の御茶屋において御茶会を催され、ついで古御殿におりて御少憩になった。この時の座敷には御掛物、御花の飾物があり、その上御菓子の御馳走まであった。青天白日の御清遊で御機嫌斜めならずと『隔蓂記』は記しておる。
 この記事によると、上御茶屋へは山路を登らねばならなかった。それから推せば、中御茶屋、下御茶屋もあったらしい。あちこちに散置した御茶屋があったと見るべきで、その先蹤は鹿苑寺金閣のある寺)慈照寺銀閣のある寺)にあるかも知れないが、宮廷の庭園としては新しい型式であった。後水尾上皇の御発案かも知れないが、これがやがて現われる桂離宮、特についで造営される修学院離宮の、先行者的な役割を持ったであろうことは、当然である。
 古御殿とはどのような由来のあるものか、まだ判らない。
 幡枝御殿は、殊に山上の御茶屋は、余程御意に適うたと見え、慶安から明暦に、しばしば御幸があった。四季折々の月花の御遊で賑やかに風雅の道を尽くされたのであった。さもあろうと思う。そのときの御茶屋からの眺望は、今日も昔のままであろうか。
 明暦元年(1655)3月13日上皇は修学院村にあった円照寺尼公の伴松軒を訪れた。その地形、その山川風物は、痛く御意に入った。それ以上尼公に対する上皇の御意に、極めて懇切至情的なものが溢れた。
 実は後水尾天皇東福門院中宮に迎えられる前に四辻大納言公遠の女「御与津御料人」との間にもうけられた一皇女があった。東福門院入内のとき、江戸幕府の方で、それを探知して、それを口実に、邪魔を入れたことがあった。天皇の御母中和門院(近衛前久の女)は、「さることはあらじ」とてこの皇女を隠し、御与津御料人のことは抹消されて、事が納まった。この皇女はその後に鷹司関白教平の許に嫁がせられたが、幕府の青い眼白い眼はとうとう鷹司家からも追出してしまって、林丘寺にお預けした、という悲劇があった。それが円照寺尼公文智女王である。尼公は天皇の爪先を蒐めてそれで「南無阿弥陀佛」の名号を描き、父上皇の冥福を祈られたこともある(やや後のことであるが)ほど、上皇との間に至情の暖かき親しみを持っておられた。上皇またこの尼公をいとしく思召して、一しおの御親愛があった。
 円照寺御幸御訪問。それについでこの土地に修学院離宮が卜定せられるに到るのは、こうした裏面の事情が強く作用したのではなかろうか。
 となると修学院離宮の先輩として、幡枝殿は大きな意義がある。修学院離宮後水尾上皇の宸慮をつくされて完成したものであるためと、上皇の御高齢とのために、幡枝御殿の御利用は、年と共に消え去った。とうとう寛文12年(1672)8月、御殿を残して、幡枝の山と山の御茶屋等が、近衛家に下賜されることとなった。近衛基熙の時である。
 幡枝御殿はやがて円通寺という寺になるのであるが、それには、次のような歴史がある。
 後水尾上皇の思召は幡枝御殿のあとを、佛天に喜捨して皇室の御祈祷所たらしめんと遊ばしたらしい。嵯峨天皇離宮が旧嵯峨御所として大覚寺となり、寺院となったおかげで連綿千年になんなんとする法脈が、栄えた故事に倣わんずる御意であった。上皇の帰依された近江国日野にある正明寺の開山龍渓和尚に附与し禅苑としよう御素意で、天寿山資福禅寺の勅額を御揮宅になった。寛文6年(1666)3月勅額は正明寺に移され、勅使の御差遣まであった。然るに新しく禅苑を開創することは幕府の拒むところとなったので、折角の勅額も、正明寺に下附されたのであったけれども改めて林丘寺の宝庫に格納され、他日正明寺に渡された。
 龍渓は黄檗山に隠元が来たとき、何かと周旋の労を取り、万福寺の創立に力を尽くした禅僧である。正明寺の勅額が「資福禅寺」であることから推して、この「福」の字は万福寺の福と無関係ではなかろうか。中国にあっては福寿を以て人生至極最後の念願とする。天寿の山号といい、資福の寺号といい、中国の思想がありありと見えるではないか。
 詩仙堂の座敷にも丈山筆「福禄」の軸があった。福寿の二字に表わされる理想こそ上皇の至念が何であったろうかを思わしめはせぬか。上皇の世寿は御八十五。その時代としては定に稀有の御長寿でなった。
 後水尾上皇の皇子である霊元天皇の乳母は贈左大臣園基任の第二女で、後光明天皇の御母壬生院の姉、霊元天皇の御母新広義門院の叔母君に当る婦人であった。この乳母は霊元天皇御幼少の頃は、後水尾上皇の御母中和門院に属従したこともあったが、後半世ここに隠遁し文英と法名した。改めて霊元天皇の御乳母として長く奉仕したのであった。
 その隠棲地が幡枝であった。
 幡枝御殿はその縁故で、この地を卜されたのであった。
 修学院離宮東福門院の建物が移建されたと同じ頃延宝6年(1678)4月、御所の御建物の一部が幡枝にも移されて佛堂となった。改めて円光院文英尼を開基とした。それが現在の御殿である。佛堂に隠元筆の扁額が掲げてある。大悲山円通寺は、かくして成立。山号寺号ともに後水尾上皇の宸翰があり、扁額として現存する。
 延宝8年(1680)8月後水尾上皇登遐。ついで文英尼も病床に親しむこととなった。霊元天皇いたく本寺の将来に御珍念あり、御内弩中から当分の間年々30石を下賜されることになった。
 そのときの宸翰を嘗て拝したことがあった。御こまごまとしたお心遣のほど畏いことと存じた。次に掲げて見る。濁点は私に附した。
 「大悲山円通寺の事は、とし頃のねがひをとげられ候て、建立の地に候へば、末代までもつゝがなく候へかしと、おもひ候事に候。ことさらに、この菩薩は、度々の霊験もあらたなる事にて、自余に混ぜざる子細も御入候上に、故院勅額をも給候事に候へば、長く祈願所にさだめ候事にて候、此寺の事は、子孫にいたりさぶろとも、おろそかになるまじく候まゝ、すヘゞまでも、心やすかるべく候
 延宝8年10月26日(御花押)
 円通禅尼へ」
別に一通「ゑん光院」に宛てた長橋局の女房文があって、その中に「…寺領もこぬうちは、僧侶のすまゐもなりかたく候よふにおぼしめし候まゝ少しの事にては候へ共、寺領もととのひ候までは、御内しょうより、三十石づゝくだされ候事にて候。…性通も、ゑんつうじの事、万心にいれ候て御よろこび候より、日とひ御申あげ候て、きこしめされ、きどくなる事とおぼしめし候、ゑん光御後にも、寺のためいよゝそりゃくなきように、よくゝ申きかされ候べくも…」とあって、寺の行末までに、御意を注がれておることが推知せられる。
 霊元天皇東山天皇に御譲位後、法皇として、佛門帰依の日を送られたが、円通寺の一角に潮音堂という一堂を構造し、観世音菩薩を本尊とされた。正徳元年(1711)10月松木前大納言は霊元法皇の思召を体して、数ケ条の覚書を交附した。その中に円通寺の永代修理その他の費用に宛てるために、白銀300枚を妙心寺に預けておいたから、その利銀をもって、本寺のために使用すべき事を命じた一項もある。なかなかに進んだ新しい資金運営法があったことに感心する。ともかく本寺の立ち行くように末々までも思念されたことが知られる。恭い思召に感泣したのは円通寺だけではあるまい。その利銀使用に立合うべき数名の人が指定されてあるが、その中にさきに出ておった性通の名も見える。
 霊元法皇の幡枝御幸は、享保15年(1730)4月12日に実現した。御即位の以前、法皇が此の地を去られた寛文元年から69年目のことである。それ迄に幾度か行幸御幸の思召は漏らされたが、幕府の意向もあって、どうしても実現しなかった。今や、漸くにして其の日を迎えた。御幼少の時の思出が70年という月日を扶んで、どの程度に幡枝御殿の内外に残存しておったろうか。
 潮音堂の本尊に御三拝。普門品を謹誦された後、御親筆の『般若心経』を宝前に納められた。
 七十(なゝそち)の一とせたらぬ昔わが、みし此寺を、今もとひきて
の玉詠があった。
 山内を御遊歩の後、東御茶屋(現存せず)で供奉の人たちと乾飯を召され、探題の和歌詠進の御興があった。初夏のうららかさに、田園の風物と相映えて、まことに清く美しき御一日であった。
 以上、ながながと円通寺の歴史を物語ったのは、わけがある。円通寺の由緒は模糊として明らかでなかった。先年工学博士森蘊氏が詳しく研究され、「円通寺について」を発表されたのでそのおかげで、充分なことが教えられたから、森氏の学恩に御礼をいいたかったからである。諒とせられよ。
 さて、円通寺へ来たのは、後水尾上皇霊元上皇を中心にする寺の歴史に興味があったからのことではなかった、はずである。
 東山三十六峰から昇る旭や夕日ではなくして、叡岳を踏み台にして沖天にさしかかる陽の男神、陰の女神の神々しさを拝みたかったからである。朝日や夕月と、比叡の霊峰、との組合せによって、どのような神秘さを醸し出すかを、教えられたかったからである。今宵の十三夜が、どのような月光を、この寺に、この庭に注ぐかを、心待ちに待とうためである。
 それ迄に、まだ時間がある。寺の客殿に坐って、お庭を拝見しよう。
 名高い円通寺の庭は決して広くはない。その狭い庭を広宏としたものに思わすのは、巧みな借景の技法の魔力である。庭の前面にある美しいが低い生垣を越して、向うに見ゆる比叡山は、恰も左右に衣の袖をゆるやかに流し泰然と坐った神仙にも見える。叡岳をこの庭の遠景と言うべきか、山の屏風というベきか、借景の極致であろう。
 縁側の限られたる空間を占める苔庭が狭いのか、広いのか。生垣で遠景と近景とが一応のところでは限られてあるのが、観点を変えると軒下まで迫った松苔が、そのまま生垣を越えて、民家の屋根を飛んで、叡山の山肌まで連々とつづくやにも見える。大海原の波の静けさである。
 雄大とか壮一麗とか言った形容詞ではとても表現し得ぬ天地である。正面に響ゆるは三千衆徒の屯う比叡山であるが、その向うは、月輪の棲家であろう。日輪の憩い所であろう。柄爛たる日輪よ。48,000の聖鳥に護られて天に沖せよ。冷澄たる月輪よ。84,000の玉兎を従えて、空に舞え。慈悲の妙大雲は恐らく甘露の法雨を満いでくれるであろう。
 ふと気附くと前庭の左方に洗々とした白石が、青苔の間に脈を打っておる。青海原の白い波頭であろうか。潮音堂から流れる誦経梵音に和して、妙音観世音の弘誓を暗示するものであろうか。
 人倫を絶した妙佳の庭。それを眺める座敷がいささか高い。庭面との距離が大きい。それをも気附いておる人が少いほど、渾然として円通寺の庭の精神を、胸に抱いて帰ろう。はればれとしたさわやかさが心の隅々にまで流動する。
 円通寺の庭を拝見する毎に、実は、私の心は暗うなる。言うまでもなくこの絶妙景観を、どうすれば破壊せずして千古─とまでは言えないにしても―100年の後まで伝え得るであろうか、の希望と困憊とである。
 何とかして、一人でも多くの人に見てもらって、このような絶美が人の世に在ることに感謝してほしいと念ずる一面、心なき来観者の不作法不調法の態度のために、浄域が穢されて行くであろう心配である。古庭園観賞が何の意義を有するものかを、知りもせず、考えもせず、ただ世間の手前で見に来ておるのだろうと推定される人が、今日もなおおった。このような来観者に接して、和尚の心は乱れるであろう。見せたくない、見てほしくない、と思いはせぬだろうか。
 それを見せる事が宗教心であろうか。拒むことが佛心であろうか。思えば、この案内記は佛罰ものであろう。

社寺マニアにピッタリの路

 南禅寺から知恩院へ抜けるには、岡崎経由と粟田口経由の2通りある。前者は疏水の流れにそって動物園、美術館、平安神官を横目に眺めながら、神宮道を南下する。後者は南禅寺境内をインクライン下のトンネルから京津国道に出たら、華頂山北麓の山道を縫って仏光寺本廟や良恩寺をさぐり、青蓮院の横手へ出る。このガイドは社寺マニア向きの後者を主とする。
 南禅寺へは、市電だと天王町、市バスは法勝寺町、京津電車は蹴上で下車後、歩くほかない。この寺は臨済宗南禅寺派大本山であり、中世以降衰えたとはいえ、なお12の塔頭と無数の国宝重文殿舎を持つ壮大な大寺院。とくに五右衛門「楼門五三桐」で名高い重文三門は日本一の門だ。境内聴松院の湯豆腐は一式で400円位。
 境内を思いきり東北へ進み、トンネルを抜けると京津間の国道1号線へ出る。トンネルの上は、今は使われない疏水インクラインだ。昔はこれで舟を引き上げ、京津間に舟運を通した。南側には都ホテルの大ビルが華頂山中腹にそびえる。
 西へ約200mほど山の中へはいると、粟田神社がある。周囲は都心と思えぬ静寂境だ。すぐ東が浄土宗良恩寺。昔は裏‐が華頂山火葬場で、ここで引導渡ししたとかで引導地蔵というのがある。寺宝の手取釜には大閤ゆかりの逸話がある。東隣は仏光寺本廟。元禄年間の創建だが、本山から移した親鸞上人の遺骨をまつる舎利塔がある。
 粟田神社から西へ回り、更に山へはいると天台宗青蓮院派の寺である尊勝院がある。藤原末期の創建で仏像が多い。参詣人もなく静寂そのもので、境内からの眺望はすばらしい。岡崎から吉田、北白川までを一望に納め、黒谷の塔と相対する。そのまま西へ地続きに青蓮院がある。この寺は名にしおう天台宗最高の門跡寺院で夜の観光バスも停車する。ここで初めて道は一般観光コースに戻る。さらに南隣の知恩院から円山道は京の観光銀座と呼ばれているところだ。

睡蓮の花咲く浄瑠璃寺

 つい数年前までは、堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」をたずさえた、ごく僅かな人影が、簡素な山門をくぐる程度の閑寂境なったが、最近は文字通りの〝古寺ブーム〟で、交通網も発達し、奈良からの直通バスが乗り入れているほどだ。農家の庭には、にわか仕立ての茶店までが出来、休日などには″〝名物とろろ〟の客で満員になることもあると言う。

〝板の間の冷たさを足裏に感じながら、薄暗い堂ぬち〟での〝みほとけとの対話〟などと言う厳粛な精神主義は、すでに過去のものという感がいくらかはあっても、美の世界に遊んで楽しもうという人達にとっては、恰好の場所と言えよう。

 浄瑠璃寺は、860年前に行基によって創建され藤原時代の阿弥陀堂の姿を伝える完全唯一の古寺である。定朝作の仏像を9体安置しているところから、一名九体寺とも呼ばれる。その中には、重要文化財となっている木像着色の華麗な吉祥天女像がある。

 奈良からの足の便がよいためか〝大和古寺〟のひとつと考えられがちだが、実は京都府相楽郡加茂町にある。

 境内の大池いちめんに、睡蓮の花がひらく初夏の景観が実にみごとだ。特に朝のうちが良い。

 間口11間、奥行4間の細長い本堂の、王朝風で繊細な木組みに、また居並ぶ9体の金色の仏像群にほのかな花あかりが及んでいる。それは人工光線ではかもし出すことのできない自然美なのだ。

 また深い木立に囲まれた池の水面に、白や黄やピンクの花が浮かぶ情景は、見る人にまさしく浄土へ来た感を抱かせるであろう。

 残念なのは、吉祥天女像の開帳が4・5・10・11月のみで、花の咲く頃には扉が閉ざされていることだ。

 睡蓮を観賞したあとは、岩船寺への山路をたどることをお薦めする。道端の草むらの蔭にいいくつもの野の仏が人から忘れ去られたように、ひっそりと置かれている。季節の果実や手作りのカキモチ、ワサビなどを棒につるして下げた無人ポストなどもあってひなびた山村の風情をじゅうぶん満喫できる。

 さわやかな初夏の陽射しのなかを、石仏を探勝しながらゆけば、約30分で岩船寺に到着する。

 交通は関西本線加茂駅からバス15分。

大徳寺

 日常茶飯事といわれるように、茶を飲むことは最もありふれた日常の行為であるが、日本では「茶道」と呼ばれる特異な茶の飲み方が発達して、世界にも例のない美の世界を樹立した。茶に用いる道具、それを扱う動作、室の飾り、客に茶をすすめる時、すすめられた時どうするかなどが、一種の礼式化して、「茶」は「道」としての精神的な深まりを持つようになった。また、道具ひとつ、飾りひとつにも、何を美しいと考えるかという美の規準が必要となり、新たな美を生み出したのである。

 千利休朝顔の花が美しく咲いたからと、秀吉を茶に招いた。秀吉は喜んで早朝訪れて見ると、たくさんあるはずの朝顔はひとつもない。これはどうしたことかと半ば立腹しつつ茶室に入ると、床の間にたった一輪、朝顔が生けてあった。その美しさに、さすがの秀吉も思わず息をのんだという話がある。茶をたてるということは、美の演出家になることでもあった。

 茶はその精神的なよりどころを禅に求めた。否、むしろ「茶禅一味」ということばが示すように、茶と禅とは最初から分かち難く結びついていたともいえる。「点茶は全く禅法にして自性を了解する工夫なり」(『禅茶録』)。心を静めて自己を.発見し、悟りを開く道であって、精神修養、仏道修行の一方法と考えられていた。禅宗の中でも、臨済宗、特に大徳寺と茶の結びつきは深い。これは「茶の湯」の祖といわれる村田珠光(1502没)が、大徳寺の一休について禅を学んだことにもよる。「茶の湯」は珠光から紹鷗(1555没)を経て千利休に至って大成されたが、千利休もまた、大徳寺と深いつながりがあった。彼は大徳寺に三門を寄進し、その楼上に自分の本像を置いた。このことが秀吉の怒りをかった。三門を出入りする、秀吉を初めとする貴人を足下にふみつけるとは無礼だというわけである。このことがもとになったのか、利休は秀吉に切腹を命ぜられ、天正19年(1591)70歳で自害した。利休の墓は、大徳寺山内聚光院にある。

 大徳寺山内には、一体を開祖とし、村田珠光の作庭と伝えられる庭を持つ真珠庵。竜安寺の石庭とほぼ同時期に造られ、竜安寺の石庭と並び称される石庭のある大仙院など、数多くの塔頭寺院があるが、その多くは、江戸時代初期の大名によって創建されたものである。

 高桐院は、細川忠興が慶長年間に創建して、細川家の菩提寺とした。忠興は利休の茶の弟子であった。利休から形見としておくられた石灯籠を自分の墓石とし、妻ガラシヤ夫人(明智光秀の娘)とともに、高桐院の墓地に葬られている。高桐院の庭は十数株のカエデと、一基の石灯籠が立つだけの庭であるが、無雑作に見えながら、いい知れぬ趣きがある。

 孤窪庵は、小堀遠州の創建になる。江戸時代随一の作庭家として知られる遠州が、自分のために自由に造った庭で、遠州流の茶祖と仰がれる彼の芸術の最高の境地を示している。本堂の北にある茶室は「忘筌」と名づけられている。これは魚を取れば筌(魚をとる道具)を忘れる、目的を達成すれば手段を忘れるという意味である。やや技巧的にすぎるきらいもあるが、江戸時代を代表する茶の庭であることは疑えない。

光悦寺と正伝寺

 徳川家康が、ある時、京都所司代板倉勝重にたずねた。「本阿弥光悦はどうしているか」「元気でおります。ちょっと変わった男で、京都にも住みあきたからどこか田舎へ行きたいなどと申しております」「それなら近江、丹波などから京都へ入る道筋で、用心が悪く、辻斬り、追はぎなどの出るところを与えて一在所つくらせたらどうか」―鶴の一声で、光悦は鷹ガ峰に東西200間、南北7町の土地を与えられた。元和元年(1615)58才の時である。

 光悦(1558~1637)は父祖伝来の家業である刀創の鑑定、磨礪、浄拭を業としていたが、幼い時から刀劔を通じて養い得た審美眼によって、書画工芸にもすぐれた才能を持っていた。彼は鷹ガ峰に一族及び職人たちを連れて移住し、芸術の理想郷をつくったのである。これは、考えようによっては、近衛信尹烏丸光広などの公卿、角倉素庵、茶屋四郎次郎などの富豪と親しく、京都人に強い勢力を持っていた光悦を洛外に追放しようとした、家康一流の策略であったかもしれない。光悦は「日本国中は神の御末にて、皆々禁裏様(天皇)のものなり」と常に言っていたというから、幕府にとっても扱いにくい相手であったようだ。

 それはとにかくとして、光悦は「都にも住みまされりと思ふばかりなり」と、この鷹ガ峰の風光をこよなく愛した。なだらかな曲線を描いて連なる山山を西に近く望み、東に比叡山、南に京の町をはるかに眺める高台は、京都でも風景美に恵まれた場所のひとつである。この地で光悦は、デザイナーというか、ディレクターというか、自分で製作する以外に、俵屋宗達などと協力して、書画・工芸から出版にいたるまでのあらゆる方面にわたって、すぐれた作品を次々と生み出して行った。特に出版物は、『伊勢物語』などの王朝文学、謡曲など日本の古典文学を中心にしていて、当時盛んになっていた漢学に対して一種の抵抗を示している。これも幕府によって奨励された漢学を、天皇に親近感を抱く京都の町衆のひとりとして快く思わなかったためであろう。光悦の住居跡は今、光悦寺になっている。

 鷹ガ峰の東北方約3キロ、舟山の麓の西賀茂に正伝寺がある。鷹ガ峰から西賀茂にかけては、比叡山が最も美しい姿を見せるあたりであるが、正伝寺の庭は比叡山を借景にしている。比叡山を借景にしている点では、幡枝の円通寺と同じであるが、正伝寺は円通寺ほど有名ではない。そのため、訪れる人も少なく、俗塵を離れた山寺の風情を残している。縁側に出された番茶を飲みながら友と語りつつ庭を眺める。中には、寝そべって日向ぼっこをする人もある。何か人の心を温くときほぐしてくれる日常的な雰囲気があって、楽しい庭である。庭はそんなに広くはない。一面に敷きつめられた白砂に、「獅子の児渡し」と呼ばれるサツキの刈込みが、七五三に配置されているだけである。築地塀のむこうに、比叡山が秀麗な姿を見せる。心に泌みる庭である。

 正伝寺は、弘安5年(1282)に現在の地に移された。庭はその頃に造られたものか、本堂を桃山城から移築した慶安年間(1648~1651)のものかは不明である。もし慶安年間とすれば、円通寺の庭園とほぼ同じ時期に造られたことになる。借景式庭園の代表的なものとして一見の必要があろう。

修学院離宮

 豊臣家を倒して天下をわが物とした徳川家康も、征夷大将軍の地位を天皇から授与されなければ、一介の大名にすぎない。官位の授与権は天皇が握っていた。家康は、まず朝廷対策に頭を悩ました。武力を持つ者には武力で戦えばよいが、古代以来、日本の王者として精神的権威を持ち、ある面では民族的信仰の対象でもある天皇に武力は通用しなかった。

 家康は、藤原氏平氏が朝廷に対してとったのと同じ外戚政策をとり、二代将軍秀忠の娘・和子を后として入内させた。武家の娘が皇后となるのは、平清盛の娘・建礼門院徳子以来、450年ほど絶えてなかったことである。元和6年(1620)、14歳の和子は二条城を出て御所へと向かった。嫁入の費用は70万石かかったという。元和9年には、後水尾天皇との間に興子内親王が誕生した。後に8歳で皇位につき、称徳天皇以来850年ぶりの女帝・明正天皇となった皇女である。

 陰に陽に加えられる幕府の圧迫にたまりかねた後水尾天皇は、寛永6年(1629)、退位して法皇となり、比較的自由な立場から政務に参加する一方、江戸時代初期の文芸復興期の一大推進役ともなった。

 後水尾上皇の芸術的天分は、円通寺修学院離宮庭園に遺憾なく発揮されている。後水尾上皇は、桂離宮を造営した八条宮智仁親王の甥に当り、たびたび桂離宮を訪れて、その影響を受けた。しかし、桂離宮が外部から完全に遮断された世界であるのに対し、修学院離宮は、いわば京都盆地のすべてを借景としてとり入れた、開かれた世界である。「借景」とはいうものの、自然の眺めのすべてを庭と考えるような雄大な上ノ御茶屋の庭の構想は、「王者の庭」と呼ばれるにふさわしく、「借景」の概念をはるかに超えている。

 修学院離宮は明暦元年(1624)に着工され、約30年の歳月をかけて完成した。この造営事業には、幕府も協力を惜しまなかった。「あし原や茂らば茂れ萩薄 とても道ある世にすまばこそ」と痛憤をもらして譲位した後水尾天皇の心を慰めようとする意図もあったのだろう。

 修学院は比叡山の西坂本にあり、もとはこのあたリ一帯に延暦寺の末寺があった。修学院寺もそのひとつであったが今はなく、地名にその名を留めるのみである。修学院を流れる音羽川沿いに、古来貴族の別荘が営まれた。谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』で、滋幹が瞼の母に対面する敦忠の山荘も、この音羽川の水をひき入れていた。「権中納言敦忠の西坂本の山荘の滝の岩にかきつけた歌、音羽川せき入れて落す滝つ瀬に 人の心のみえもするかな―伊勢」(『拾遺集』)という歌が残っている。修学院離宮もまた、この音羽川の水をひき入れて利用しているのである。

 比叡山三千坊があった名残りは、路傍の石仏にもうかがえ、修学院離宮内の田にあった石仏2体が、離宮付近の禅華庵に移されている。鎌倉期のものらしい堂々たるもので、わらぶきの特異な山門とともに一見に値する。禅華庵は江戸時代初期に創建された禅寺で、比叡山天台宗)とのつながりはない。修学院離宮へ急ぐ人は、いつもこの無名の寺の門前を素通りするが、この寺のような存在が重なって、初めて古都の美は完成する。
修学院離宮

詩仙堂と曼殊院~江戸時代の文人趣味

 宮本武蔵と吉岡一門の決闘の場で名高い一乗寺下り松から、爪先上りの道を登って行くと、道の右手に一群の竹藪があり、その下に詩仙堂の間がひっそりと開いている。竹におおわれた薄暗い道を入って行くと、現代から隔絶された別世界へと導かれる想いがする。突き当たって左へ曲ると、急に明るくなる。白砂を敷きつめた玄関の前は、暗から明への転換がきわ立っているだけに、なおさら別世界に入った印象が強い。書院に通って、庭を見る。庭はそれほど広くもないし、技巧もこらしていない。きれいに刈りこまれたサツキがなだらかな起伏を見せる。そのむこうは、浅い谷をへだてて山がせまる。手前は掃き目もすがすがしい白砂。初冬なら、石川丈山遺愛のサザンカの老木が白い花びらを散らしている。時おり、下の谷のほうから「カッタンコトン」という添水の冴えた音がひびく。この音によって、かえって静寂感が強められる。

 ふと、何もかも捨てて、このような所で好きな事をして一生をおくってみたいとか、また、このままあてどのない漂泊の旅に出て見たいという想いが浮かぶ。平凡な日常生活からの脱出―それは凡人にとっては生涯かなえられない願いであるかもしれない。それだけに、その願いを果たして、ここに理想の世界をうち立てた丈山に、かぎりないなつかしさを感じるのだ。

 詩仙堂の主、石川丈山(1583~1672)は、徳川家康に仕える武士であった。大阪城夏の陣に、禁じられていた抜けがけを行なってとがめを受け、浪人した。槍一筋で一国一城の主となった時勢は、すでに過去のものとなっていた。33才の丈山は、武の世界から一転して文の道へ入った。家康の政治顧問として、また幕府の思想的な支柱として活躍した林羅山の師、藤原惺窩の門人となり、8年間漢学を学んだのち、広島の浅野家に仕えた。後に朝鮮の使者、権式に「日本の李白杜甫」と賞讃された漢詩文の才能が認められたのである。平和の訪れとともに、漢学が盛んとなり、幕府の政策もあって、各藩では争って儒学者を召し抱えた時代である。それにつれて、中国の文人趣味が流行しはじめていた。俗世間を超越して隠棲し、詩文を作ることを半ば職業とする一方、あらゆる芸能にもたずさわる。たとえ生活は貧しくとも、心の豊かさと自由を失わず、風流の世界に遊ぶ。中世の鴨長明兼好法師と根本的に異なるところは、神仏とも全く無縁な点である。当時、すでに、藤原惺窩の朱子学の影響によって、人間中心の考え方が芽生えていた。丈山もまた、この文人趣味の洗礼を受け、54才で再び浪人し、59才の時、詩仙堂を建て、かねての願いを実現したのである。

 詩仙堂の北、比叡山麓に沿って、曼殊院修学院離宮がある。曼殊院の門跡良尚法親王は、明暦2年(1656)に曼殊院を市内から現在地に移した。良尚法親王は桂離官の造営者・八条宮智仁親王の王子である。規模こそ小さいが、桂離宮、あるいは、ほぼ同時期に造営された修学院に匹敵する構想、意匠で、曼殊院は造られた。庭園は鶴島、亀島を配する神仙庭園で、江戸時代初期、中国趣味の影響によって再び盛んになった様式を伝えている。このほかに、八窓の茶席など、江戸時代初期の文化を代表するものも多い。
詩仙堂
曼殊院

大原の里

 大原は京都市内を去ること約12キロ、比叡山の北西麓にある小さな盆地である。四方を山に囲まれ、中央を高野川が流れる山里で、大原の名を口にするとき、人はなぜかいちまつの哀愁を感じる。それというのも、古典文学に登場する大原は、いずれも失意の人につながっているからである。『平家物語』の建礼門院はいうまでもなく、『伊勢物語』の惟喬親王、『源氏物語』の浮舟など、実在、仮空の人物をとりまぜて、いずれも都を逃れ、世を捨てて、この大原でひたすらみ仏の救いを念じた人々の住むところであった。
  仏は常にいませどもうつつならぬぞあはれなる
  人の音せぬ暁にほのかに夢に見え給ふ
  暁しづかに寝覚めして思へば涙ぞおさへあへぬ
はかなくこの世を過してはいつかは浄土へ参るべき

 三千院内往生極楽院の弥陀三尊像(勢至菩薩は、久安4年=1148の銘を持つ)を拝するとき、いつもこのふたつの今様歌が私の脳裏にうかぶ。きちんと膝を折って、往生者を乗せる蓮台をさし出す観音菩薩の姿、人々の唯一の願いは、その上に乗せられて極楽に往生することであった。この堂を造った藤原実衡の妻、真如房尼の願いもそうであった。

 平安時代も半ばを過ぎると、世の中は何となく不安になって、全盛を誇った藤原氏も衰えを見せはじめ、釈迦が亡くなって後1500年たつと、末法乱世の世が訪れるという無気味な予言が現実化しようとする気配すら見えてくる。出家して山にこもり、学問・修行するだけの決断もできない。比叡山は女人禁制の寺である。そうした心弱い人々や女性たちの心の支えになったのは「信心あさくとも本願ふかきゆえに頼めば必ず往生す。念仏ものうけれども唱ふればさだめて来迎にあづかる功徳大なり」と説く恵心僧都(942-1017)の教えであった。この恵心の流れを汲む人が良忍(1072~1136)である。

 良忍は恵心にゆかりの深い比叡山横川で修行していたが、のちに山を下って、横川の西麓の大原に来迎院を建て、融通念仏宗と呼ばれる念仏の教えを開いた。良忍は一方、声明梵唄にもすぐれ、ために学ぶ者が多く、大原は仏教音楽の根本道場ともなった。大原を魚山と呼ぶのは、中国の声明音楽の発祥地、魚山になぞらえた呼び名である。三千院をはさんで流れるふたつの川、呂川・律川は、宮商律呂という音階名からとったものである。

 大原は念仏の里であると同時に、大原女の里でもある。大原女姿は建礼門院の姿を真似たという。後ろで合わせるべき「脚絆」を前で合わせているのは、建礼門院が誤ってそうされたのを、そのまま受けついだのだなどと伝えられる。「黒木(たきぎ)買わんせ、黒木召せ」と京の町を売り歩いた。貧しい山村では、黒木を行商する以外に収入がなかったのであろう。朝早く起きて少ない田畑を耕した後、黒木を頭にのせて京まで出かける。日がくれてから大原に帰り着き、それから明日はくわらじをつくるのが日課であったという。現在では、薪炭の需要はなくなった。その代りに、柴漬、餅などを行商する姿は今も見られる。「小原女」と書いた白衿をつけているのは八瀬の「大原女」で、その行商範囲は大阪にまで広がっている。