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京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

明日の京都と二十歳の原点

「京都駅につき、しみじみと懐かしさを感じた」と『二十歳の原点』で高野悦子は帰省先から戻ってきた時の思いを残している。「私の願いは、京都に出来るだけ京都の持つ良さを遺してほしいと思うことである。京都の持つ良さとは、日本の洗練された良さであり、日本の故郷的な香りである」と東山魁夷は画家としていっている。旅人的傍観者と京都で生活している者との間には、どうしてもひとつの大きな断層があることはしかたがないことである。アントニイ・レイモンドは「京都にぶざまなタワーができたとき、京都、奈良、鎌倉がバーバリズムによってその美しさを失っていくとき何をしたか」と強く言っているが、その京都タワーは、そうぶざまでもなく、巨大な甍の群れと共生をはじめていると、私は思う。東京へ都が移った時、第二の奈良とならぬために、たくましく近代化を進めた人々は、「古いもの」をすべてなくそうとさえした。例えば宇治の平等院も売りにだされたほどで、それ程の気がまえがなければ近代化を進めることができなかった。私たちはくずれる寸前の土塀の道に感傷的な「美」を求めることがあるが、そこに生活する者にとっては、美ではなく貧しさにすぎない。

 冒頭紹介した高野悦子が京都の大学に進学した理由の一つが多くの寺社の存在であった。では、古寺社をかかえた土地では、近代化をはかるにはどうすればいいのだろうか。どう考えても、終極にはひとつの大きな矛盾にぶつかるのではなかろうか。ただひとつ言えることは、京都にかつて建物をたてた人々以上に現代の建築家は自然とのパランスを考えているだろうか、ということだ。その建物の美だけを考えずに、自然との調和を真剣に考えねばならない。京都の美は自然のものではなく、ほとんどが造られたものである。鴨川の流れも、高瀬川も、疏水べりの道も、すべて人間の知恵の創造物である。川端康成は『古都』の中で、青蓮院の楠を大きい盆栽であるとし、それに対して千重子は、「それが京都やおへんの、山でも、川でも、人でも、…」と言う。

 旅行者の求める京都はふたつあると思う。ひとつは過去の国であり、他のひとつは近代化の進んでいない豊かな自然だと考える。現代の京都では、このふたつがまだ分離しないで残されている点で、日本人の心のふるさととしての価値がある。単なる過去の再現なら、最近流行の遊園地とか明治村にそれがおこなわれているわけである。建礼門院の物語の大原の里に、巨大な鉄筋ビルがつくられるとすれば、もはや京都は日本人の心のふるさとではなくなるだろう。賀茂川の堤にケヤキの巨木が並び、桜が緑の群をつくっているから、葵祭も王朝のムードが再現できるのだと思う。

 『二十歳の原点』の中でクラスコンパが開かれたという洛北の植物園も、次第に田園地帯が宅地化する中にあって、最後の砦的な役目をもっているのかもしれない。植えられた植物の緑だけでなく、借景式庭園と同様に、比叡山の緑と共に存在しているのである。

 山々の緑と水の清らかさだけは、どうしても保たればならないと思う。京都がそれを失ったら、もはや存在理由はないと思う。

 古都はやがて「幻」になるのかもしれない。心のふるさとに思いをはせ、やってきた旅人は、はじめは恋こがれていた人に再会した喜びがあったとしても、期待していたすべてを満足することができないだろう。ふるさとは遠くにありて思うもの、といった言葉が正しいとすれば、京都の秋はさびしすぎる。春の日に、再び明日の京都について考えてみよう。

大徳寺

 日常茶飯事といわれるように、茶を飲むことは最もありふれた日常の行為であるが、日本では「茶道」と呼ばれる特異な茶の飲み方が発達して、世界にも例のない美の世界を樹立した。茶に用いる道具、それを扱う動作、室の飾り、客に茶をすすめる時、すすめられた時どうするかなどが、一種の礼式化して、「茶」は「道」としての精神的な深まりを持つようになった。また、道具ひとつ、飾りひとつにも、何を美しいと考えるかという美の規準が必要となり、新たな美を生み出したのである。

 千利休朝顔の花が美しく咲いたからと、秀吉を茶に招いた。秀吉は喜んで早朝訪れて見ると、たくさんあるはずの朝顔はひとつもない。これはどうしたことかと半ば立腹しつつ茶室に入ると、床の間にたった一輪、朝顔が生けてあった。その美しさに、さすがの秀吉も思わず息をのんだという話がある。茶をたてるということは、美の演出家になることでもあった。

 茶はその精神的なよりどころを禅に求めた。否、むしろ「茶禅一味」ということばが示すように、茶と禅とは最初から分かち難く結びついていたともいえる。「点茶は全く禅法にして自性を了解する工夫なり」(『禅茶録』)。心を静めて自己を.発見し、悟りを開く道であって、精神修養、仏道修行の一方法と考えられていた。禅宗の中でも、臨済宗、特に大徳寺と茶の結びつきは深い。これは「茶の湯」の祖といわれる村田珠光(1502没)が、大徳寺の一休について禅を学んだことにもよる。「茶の湯」は珠光から紹鷗(1555没)を経て千利休に至って大成されたが、千利休もまた、大徳寺と深いつながりがあった。彼は大徳寺三門を寄進し、その楼上に自分の本像を置いた。このことが秀吉の怒りをかった。三門を出入りする、秀吉を初めとする貴人を足下にふみつけるとは無礼だというわけである。このことがもとになったのか、利休は秀吉に切腹を命ぜられ、天正19年(1591)70歳で自害した。利休の墓は、大徳寺山内聚光院にある。

 大徳寺山内には、一体を開祖とし、村田珠光の作庭と伝えられる庭を持つ真珠庵。竜安寺の石庭とほぼ同時期に造られ、竜安寺の石庭と並び称される石庭のある大仙院など、数多くの塔頭寺院があるが、その多くは、江戸時代初期の大名によって創建されたものである。

 高桐院は、細川忠興が慶長年間に創建して、細川家の菩提寺とした。忠興は利休の茶の弟子であった。利休から形見としておくられた石灯籠を自分の墓石とし、妻ガラシヤ夫人(明智光秀の娘)とともに、高桐院の墓地に葬られている。高桐院の庭は十数株のカエデと、一基の石灯籠が立つだけの庭であるが、無雑作に見えながら、いい知れぬ趣きがある。

 孤窪庵は、小堀遠州の創建になる。江戸時代随一の作庭家として知られる遠州が、自分のために自由に造った庭で、遠州流の茶祖と仰がれる彼の芸術の最高の境地を示している。本堂の北にある茶室は「忘筌」と名づけられている。これは魚を取れば筌(魚をとる道具)を忘れる、目的を達成すれば手段を忘れるという意味である。やや技巧的にすぎるきらいもあるが、江戸時代を代表する茶の庭であることは疑えない。

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光悦寺と正伝寺

 徳川家康が、ある時、京都所司代板倉勝重にたずねた。「本阿弥光悦はどうしているか」「元気でおります。ちょっと変わった男で、京都にも住みあきたからどこか田舎へ行きたいなどと申しております」「それなら近江、丹波などから京都へ入る道筋で、用心が悪く、辻斬り、追はぎなどの出るところを与えて一在所つくらせたらどうか」―鶴の一声で、光悦は鷹ガ峰に東西200間、南北7町の土地を与えられた。元和元年(1615)58才の時である。

 光悦(1558~1637)は父祖伝来の家業である刀創の鑑定、磨礪、浄拭を業としていたが、幼い時から刀劔を通じて養い得た審美眼によって、書画工芸にもすぐれた才能を持っていた。彼は鷹ガ峰に一族及び職人たちを連れて移住し、芸術の理想郷をつくったのである。これは、考えようによっては、近衛信尹烏丸光広などの公卿、角倉素庵、茶屋四郎次郎などの富豪と親しく、京都人に強い勢力を持っていた光悦を洛外に追放しようとした、家康一流の策略であったかもしれない。光悦は「日本国中は神の御末にて、皆々禁裏様(天皇)のものなり」と常に言っていたというから、幕府にとっても扱いにくい相手であったようだ。

 それはとにかくとして、光悦は「都にも住みまされりと思ふばかりなり」と、この鷹ガ峰の風光をこよなく愛した。なだらかな曲線を描いて連なる山山を西に近く望み、東に比叡山、南に京の町をはるかに眺める高台は、京都でも風景美に恵まれた場所のひとつである。この地で光悦は、デザイナーというか、ディレクターというか、自分で製作する以外に、俵屋宗達などと協力して、書画・工芸から出版にいたるまでのあらゆる方面にわたって、すぐれた作品を次々と生み出して行った。特に出版物は、『伊勢物語』などの王朝文学、謡曲など日本の古典文学を中心にしていて、当時盛んになっていた漢学に対して一種の抵抗を示している。これも幕府によって奨励された漢学を、天皇に親近感を抱く京都の町衆のひとりとして快く思わなかったためであろう。光悦の住居跡は今、光悦寺になっている。

 鷹ガ峰の東北方約3キロ、舟山の麓の西賀茂に正伝寺がある。鷹ガ峰から西賀茂にかけては、比叡山が最も美しい姿を見せるあたりであるが、正伝寺の庭は比叡山を借景にしている。比叡山を借景にしている点では、幡枝の円通寺と同じであるが、正伝寺は円通寺ほど有名ではない。そのため、訪れる人も少なく、俗塵を離れた山寺の風情を残している。縁側に出された番茶を飲みながら友と語りつつ庭を眺める。中には、寝そべって日向ぼっこをする人もある。何か人の心を温くときほぐしてくれる日常的な雰囲気があって、楽しい庭である。庭はそんなに広くはない。一面に敷きつめられた白砂に、「獅子の児渡し」と呼ばれるサツキの刈込みが、七五三に配置されているだけである。築地塀のむこうに、比叡山が秀麗な姿を見せる。心に泌みる庭である。

 正伝寺は、弘安5年(1282)に現在の地に移された。庭はその頃に造られたものか、本堂を桃山城から移築した慶安年間(1648~1651)のものかは不明である。もし慶安年間とすれば、円通寺の庭園とほぼ同じ時期に造られたことになる。借景式庭園の代表的なものとして一見の必要があろう。

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修学院離宮

 豊臣家を倒して天下をわが物とした徳川家康も、征夷大将軍の地位を天皇から授与されなければ、一介の大名にすぎない。官位の授与権は天皇が握っていた。家康は、まず朝廷対策に頭を悩ました。武力を持つ者には武力で戦えばよいが、古代以来、日本の王者として精神的権威を持ち、ある面では民族的信仰の対象でもある天皇に武力は通用しなかった。

 家康は、藤原氏平氏が朝廷に対してとったのと同じ外戚政策をとり、二代将軍秀忠の娘・和子を后として入内させた。武家の娘が皇后となるのは、平清盛の娘・建礼門院徳子以来、450年ほど絶えてなかったことである。元和6年(1620)、14歳の和子は二条城を出て御所へと向かった。嫁入の費用は70万石かかったという。元和9年には、後水尾天皇との間に興子内親王が誕生した。後に8歳で皇位につき、称徳天皇以来850年ぶりの女帝・明正天皇となった皇女である。

 陰に陽に加えられる幕府の圧迫にたまりかねた後水尾天皇は、寛永6年(1629)、退位して法皇となり、比較的自由な立場から政務に参加する一方、江戸時代初期の文芸復興期の一大推進役ともなった。

 後水尾上皇の芸術的天分は、円通寺修学院離宮庭園に遺憾なく発揮されている。後水尾上皇は、桂離宮を造営した八条宮智仁親王の甥に当り、たびたび桂離宮を訪れて、その影響を受けた。しかし、桂離宮が外部から完全に遮断された世界であるのに対し、修学院離宮は、いわば京都盆地のすべてを借景としてとり入れた、開かれた世界である。「借景」とはいうものの、自然の眺めのすべてを庭と考えるような雄大な上ノ御茶屋の庭の構想は、「王者の庭」と呼ばれるにふさわしく、「借景」の概念をはるかに超えている。

 修学院離宮は明暦元年(1624)に着工され、約30年の歳月をかけて完成した。この造営事業には、幕府も協力を惜しまなかった。「あし原や茂らば茂れ萩薄 とても道ある世にすまばこそ」と痛憤をもらして譲位した後水尾天皇の心を慰めようとする意図もあったのだろう。

 修学院は比叡山の西坂本にあり、もとはこのあたリ一帯に延暦寺末寺があった。修学院寺もそのひとつであったが今はなく、地名にその名を留めるのみである。修学院を流れる音羽川沿いに、古来貴族の別荘が営まれた。谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』で、滋幹が瞼の母に対面する敦忠の山荘も、この音羽川の水をひき入れていた。「権中納言敦忠の西坂本の山荘の滝の岩にかきつけた歌、音羽川せき入れて落す滝つ瀬に 人の心のみえもするかな―伊勢」(『拾遺集』)という歌が残っている。修学院離宮もまた、この音羽川の水をひき入れて利用しているのである。

 比叡山三千坊があった名残りは、路傍の石仏にもうかがえ、修学院離宮内の田にあった石仏2体が、離宮付近の禅華庵に移されている。鎌倉期のものらしい堂々たるもので、わらぶきの特異な山門とともに一見に値する。禅華庵は江戸時代初期に創建された禅寺で、比叡山天台宗)とのつながりはない。修学院離宮へ急ぐ人は、いつもこの無名の寺の門前を素通りするが、この寺のような存在が重なって、初めて古都の美は完成する。
修学院離宮

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詩仙堂と曼殊院~江戸時代の文人趣味

 宮本武蔵と吉岡一門の決闘の場で名高い一乗寺下り松から、爪先上りの道を登って行くと、道の右手に一群の竹藪があり、その下に詩仙堂の間がひっそりと開いている。竹におおわれた薄暗い道を入って行くと、現代から隔絶された別世界へと導かれる想いがする。突き当たって左へ曲ると、急に明るくなる。白砂を敷きつめた玄関の前は、暗から明への転換がきわ立っているだけに、なおさら別世界に入った印象が強い。書院に通って、庭を見る。庭はそれほど広くもないし、技巧もこらしていない。きれいに刈りこまれたサツキがなだらかな起伏を見せる。そのむこうは、浅い谷をへだてて山がせまる。手前は掃き目もすがすがしい白砂。初冬なら、石川丈山遺愛のサザンカの老木が白い花びらを散らしている。時おり、下の谷のほうから「カッタンコトン」という添水の冴えた音がひびく。この音によって、かえって静寂感が強められる。

 ふと、何もかも捨てて、このような所で好きな事をして一生をおくってみたいとか、また、このままあてどのない漂泊の旅に出て見たいという想いが浮かぶ。平凡な日常生活からの脱出―それは凡人にとっては生涯かなえられない願いであるかもしれない。それだけに、その願いを果たして、ここに理想の世界をうち立てた丈山に、かぎりないなつかしさを感じるのだ。

 詩仙堂の主、石川丈山(1583~1672)は、徳川家康に仕える武士であった。大阪城夏の陣に、禁じられていた抜けがけを行なってとがめを受け、浪人した。槍一筋で一国一城の主となった時勢は、すでに過去のものとなっていた。33才の丈山は、武の世界から一転して文の道へ入った。家康の政治顧問として、また幕府の思想的な支柱として活躍した林羅山の師、藤原惺窩の門人となり、8年間漢学を学んだのち、広島の浅野家に仕えた。後に朝鮮の使者、権式に「日本の李白杜甫」と賞讃された漢詩文の才能が認められたのである。平和の訪れとともに、漢学が盛んとなり、幕府の政策もあって、各藩では争って儒学者を召し抱えた時代である。それにつれて、中国の文人趣味が流行しはじめていた。俗世間を超越して隠棲し、詩文を作ることを半ば職業とする一方、あらゆる芸能にもたずさわる。たとえ生活は貧しくとも、心の豊かさと自由を失わず、風流の世界に遊ぶ。中世の鴨長明兼好法師と根本的に異なるところは、神仏とも全く無縁な点である。当時、すでに、藤原惺窩の朱子学の影響によって、人間中心の考え方が芽生えていた。丈山もまた、この文人趣味の洗礼を受け、54才で再び浪人し、59才の時、詩仙堂を建て、かねての願いを実現したのである。

 詩仙堂の北、比叡山麓に沿って、曼殊院修学院離宮がある。曼殊院の門跡良尚法親王は、明暦2年(1656)に曼殊院を市内から現在地に移した。良尚法親王は桂離官の造営者・八条宮智仁親王の王子である。規模こそ小さいが、桂離宮、あるいは、ほぼ同時期に造営された修学院に匹敵する構想、意匠で、曼殊院は造られた。庭園は鶴島、亀島を配する神仙庭園で、江戸時代初期、中国趣味の影響によって再び盛んになった様式を伝えている。このほかに、八窓の茶席など、江戸時代初期の文化を代表するものも多い。
詩仙堂
曼殊院