京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

禅定寺

 東海東山北陸の三道、要約すればわが国の東国地方から、もし逢坂山を越えずして(即ち京都に触れずして)奈良に達しようとすれば、どういう道があるだろうか。
 東国から兵を進めて、京に入ろうとした時、瀬田川を塞がれ、逢坂山を閉じられたとするならば、どうすべきか。洛南に兵を廻すのにどうした迂路があるか。
 この二つの問題を解決するのが宇給田原越である。
 滋賀県甲賀郡信楽や水口から田上山の北を通り大石町に出て瀬田川を渡ると、川の右岸に沿うた石山や南郷から南下した道に出る。それから曽東に到り、裏山を越えて醍醐山に出る道と合流する。そこを更に川と離れて西に向えば、宇治田原越になる。峠をすぎれば宇治にも近いし、南下して青谷や井出から奈良に向うことが出来るし、西向して田辺か八幡枚方にも出ることが出来るのである。
 瀬田逢坂を塞がれた時に南山城から奈良への脇道であるが、それだけに軍事上の要路である。
 その峠の中間にあるのが禅定寺で、この峠を一名禅定寺越とも言う。
 古くは壬申乱(39代弘文天皇元年―672)に大海人皇子(後の40代天武天皇)が東行されたとき通過されたとの説もあり、源平合戦のとき、関東からの源軍は、ここを越えて宇治に迫り、河を渡らんとした梶原景時佐々木高綱宇治川先陣争いの場面も、展開したのであった。
 承久乱(1221)には北條泰時が、建武2年(1335)の年末には足利尊氏は東国から軍を率いてこの峠を越え、洛南から京都を窺っておる。近世では、本能寺変のあった時、天正10年(1582)堺にあった徳川家康は、河内から宇治田原に出て、この峠を通って信楽に帰路を求め、三河に無事に帰っておる。
 案外な要路であるが、案外に軽視されており、そこを扼する禅定寺は、それ故に案外に政治的軍事的の要塞であるのに、案外に知られていなかった。初めて訪れたのは大正15年であったが、宇治からここまで約8キロ、徒歩による外なく、通る人は一人もなかった。吉川英治氏が『鳴門悲帖』で、お綱をこの道から走らせたほどの寒村であった。
 禅定寺も荒れ果てて座敷の畳は穴で一杯。僅かに一室だけ、どうにか坐れるように和尚が工夫してくれて、4、5泊が、やっとのことであった。驚くべき多数の禅定寺文書を見出したおかげで、わびしい山寺の淋しさを感じなかった。

 禅定寺の開基は残念ながら不詳である。判ったところだけを記してみよう。
 東大寺別当に平崇という名僧があった。顕密の碩学で、明徳知行兼備の清侶、常に阿字を観じ、毎時、その口から金色の光が出たほどの人であったが、別当に補せられて以来、この光が隠失した。それを慨いた平崇は別当を辞し、懺悔のために私領を献じ一寺を建立。十一面観世音菩薩像を安置して本尊とした。66代一條天皇正暦2年(991)のことで、これが本寺の創潮であるとする寺伝を、古くから寺では持っておる。それについて少し理屈を言うと、平崇が東大寺別当に在職したのは正暦5年(994)から長徳4年(998)であるから、上述の由緒は年代的には合致せぬが、それ以上は、どうにもならない。
 尓来平崇はここに隠棲して修禅に専行したが、長保3年(1001)4月8日田畠を本寺に施入(その施入状、現存する。旧国宝)して後顧の患なからしめる用意を果し、翌年10月7日77歳にして示寂。後山に葬った。
 その資弟子利原上人また法徳熾んにして、よく先師の聖業を守り、先師の時に使用した三石の湯釜を五石二斗の大湯釜に改め、大湯屋を修理し、遠近より来り沐するものの数が殖えることをもって、一に先師に対する供養であるとした。
 その時の寺地は、今より少し奥の西北に当り、桑在郷というところであった。安政年間までその旧址に桑在寺という小寺があった。
 現在のは中興開山月舟卍山和尚の建てる所である。月舟は黄栄の隠元と相並びて、近世当初の有名な禅僧で、加賀国家老大聖寺の本多阿波守政長の出資によったものである。

 それがどうして関白家の所領になるのであろうか。
 東大寺の僧奝然(嵯峨の清涼寺釈迦像を将来した人)が宋から帰朝するや、その将来した文殊菩薩像を摂政東三條殿兼家に寄進した。兼家即ち文殊堂を建立してこれを安置し、宇治田原の住人を撰んで、その香寄人に任じた。その年代に関しては寺伝に少しく不審なところがあるも、天元年間(978~82)のことであったという。
 その文殊堂は禅定寺にあったものではあるまいと思うが、恐らく平崇の頃に、平崇から寺領寄進をうけた禅定寺の方で、その時代の風習に従って寺院並びに寺領を共に摂政兼家に献じてその本所と仰ぎ、寺院寺領の安全策を講じたものであろう。
 かくして宇治田原は東三條兼家からその子の御堂関白道長に、更に頼通に伝わった時、頼通が宇治に平等院を建てたので、宇治田原もその政所の支配下に加えられつつ、頼通から師実、師通を経て知足院関白忠実に伝領された。
 忠実は富家殿関自とも言われた人で、その文字通り、巨額なる所領を所有した大勢力家であった。禅定寺関白とも呼ばれることから推して、忠実は禅定寺に対して非常なる配慮を加え、寺観を完備全整したのではなかったか。
 次にその子法性寺関白忠通、六條関白基実と渡り、ついで普賢寺関白基通と、次第を経て近衛家の所領中にその名を記入される光栄を有した。
 その隣邑であった曽東庄が九條家の所領であったために、今後、常に曽束庄人から脅かされ、境界争を永々と繰り返す運命に見舞われるのであるが、そのことは本稿の埓外に置くこととする。

 禅定寺の創立が上述のように輝かしいものであったとすれば、禅定寺の今後は果してどうなるのだろうか、心配の種になる。ということは、言い改めると、そのようにその出発点を堂々と踏み出した寺院の経営は、将来、安易なことであろうか、それとも本所として侍む近衛家の浮沈に左右されるであろうか。もちろん近衛家のように日本第一の権勢家のことであるから、心配は要らぬかも知れないが、事実は却って、安心のならぬ場合がある。
 元来、宇治田原という土地柄を考えると、奥山の中の僅かに開けた狭い山峡の土地であり、あり余るほどの収穫のある肥沃地でもない。現に当今でも住民は山肌を開いて茶圃の経営に努めておるのであるし、山間地特有の冷気を利用して、柿を植え、干柿(古老柿)を作ることによって、生計を豊かにしておるのである。晩秋に宇治田原に足を入れると、いわゆる柿紅葉の余りの美しさに胆を奪われるのである。
 されば、山林を以てその最大の資源としておる当山においては中古以来、山司職を置いて山林保護に全力を致したのであった。例えば92代伏見天皇の永仁4年(1296)12月日の「寺山禁制」を見ても桧椙類から松椎の類まで、伐採に細かな禁制を設けて、村人は言うも更なり、寺の住侶等までもの盗伐を厳しく戒めておるほどである。
 それでもとうとう〝時〟の女神には勝てない。時間とともに頽運に向い、月舟卍山和尚によりて、やっと型ばかりが残ったのである。
 それは、本寺だけの歩いた道ではない、殆どの寺、と言わず、旧勢力のすべてが、たどらなければならなかった歴史の惨虐である。歴史はあらゆるものを変化さしてしまう。よくもあしくも。

 本尊十一面観世音菩薩の外躯堂々たる巨像。法量九尺四寸。このような雄作が、宇治田原の山奥にあるとは誰が予想し得たろうか。
 貞観佛の俤はなお僅かに残存しておるが、少し緊張感が足りない。と言っても藤原式の円満豊肥さではない。形式化されていない。充分に個性が含まれておる。本寺創立の正暦のものと見るべきであり、下半身の、両脚が衣文から透けて見える軟かさは、佛師定朝の出るまでの作風である。定朝を育てたであろう師匠の神技霊腕である。
 光背が後補であるので、それに見誤られて本尊の秀麗さを見落すかも知れないが、1、2時間、徐かに対面しておると、「定にこれは佛様だな」と心中から湧き出る宗教心を認めるであろう。
 その脇にある文殊騎獅像また同時代のもので、後補の獅子を除けて拝むと、何とも言えぬ清楚さに、シビレル思いがする。
 これほど怜智端正温雅な面相があるものか。これほど整うた目鼻があるものか。唇が少し強すぎるかにも見えるが、これも文殊菩薩の内心の充実を示す標識であろう。
 もし人間の顔が、これほど端正であったなら、人生は淋しいものになるであろう。悲哀なものになるであろう。人相には不揃があり、不整があり、欠隙があるから、人の世は温かいのである。人の世に発展進歩があり、精進があるのである。もし人世が完全なものならば、それはもう極楽世界と同格になったことで、人間界を外れたものであろう。
 別室に安置する四天王は、重厚な上に典雅で、藤原時代の作風を充分に認めることが出来るが、よく見ると四軀一組の四天王ではない。多聞天だけは別組のものである。革鐙の臑当も三軀はやや楕円であるが一軀は円い。胸当も外にふくらんだ曲線であるが、一軀は内に切り込んである。
 その初めからこうした相違を意識して作ったのではなく、別々の二組の四天王が偶然、この四軀一組にされたものであろう。
 先々住が言っておった。明治初年の排佛毀釈のとき、この四天王以下多くの佛像を井戸ばたへ持って行ってゴシゴシと洗い、金箔を剥がし、色彩を流し落し、佛像ではない、本片だ、と言って焼却される難を免れたのであったそうで、この四天王もその罹災者の仲間であったらしい。しかし、今は四軀一体となって、仲よく佛界を狙う悪魔を追い退けんと、怒号挙拳を怠らない、責任感の強い天部である。「たのみます」と言って礼拝したい。
 もう一体見るべきものがある。地蔵菩薩の半珈像であるが、本像はもとここより西二町にあった地蔵渓の地蔵堂の本尊であった。
 左足をおろした延命地蔵で、藤原時代の作であろうと認定されておる。

 本堂前の空地や本堂の横、後背の畑に、もろもろの花草を植えておる和尚の心は、実にゆかしいものではないか。それは本尊以下の供華にするための用意であるかも知れないが、山寺の和尚は、恐らく語るに相手のない毎朝毎夕を、咲き初める花に語り、咲き揃うた花に喜び、萎み行く花弁に心を痛めておったのであろう。
 そうでないかも知れない。邪心に満ちた人間と語らい暮すよりも、無心の草本と交わることの潔さに法悦境を見出したのではないか。
 そのような和尚を羨しいと思う。

 幾十度禅定寺に来たか。その度毎に和尚は必ず前夜に心をこめて焼いたカキモチを食べさせて下さった。
 佛様よりこのカキモチを有り難く思うて参山したかも知れない私に、本尊は少しも罰を当てられなかった。やはり佛様はありがたいものであると信ずる。

円福寺

 「八幡の藪知らず」という諺がある。
 八幡一帯は、藪で満ちておった里である。余りに藪が多すぎて、どちらをむいても、竹藪竹藪で、その外に何物もない。そのために、この里の住人は、却って藪のあることに気がつかない、ということであろう。余りに物がありすぎると、却って、それのありがたみを感じない、という教訓ではなかろうか。
 それほどに多かった八幡の藪も、いまは僅かに円福寺への道に見られるだけで、これもやがて消えてしまうのではないか。
 竹藪の向うの、奥の奥の寺。如何にも禅寺らしいすがすがしい気分で、俗人の心は洗い清められる。都会人の耳には聞えないような藪かげの虫の音も、さやかである。
 「禅」というものは、必ずしもお寺だけにあるものではない。禅の道場とは必ずしも座禅堂でなければならぬというわけはない。円福寺に到る道の、だらだら上りの藪沿いの小道こそ、真の禅道場であろう。私の好きな道の一つ。
 数年前のことであった。美濃の伊深へ行った時、その途中で托鉢修行の禅僧群に逢うた。その時の感激と歓喜と感心とは今も消え去らない。15、6人はおったろうか。一列縦隊に並んだ修行僧が、菅笠、脚絆、紺衣に整然と身を装い、首から頭陀袋をかけ、オーオーと隻手を挙げて歩いておる様子には、改めて心を打たれた。修行僧は、何も考えてないのであろう。自分達の歩いておることさえ、忘れておるのだろう。オーオーと声を出しておることさえ気がついていないだろう。行列の仲間があることも、意識していないのだろう。ことによると自分の存在も念慮にはないかも知れぬ。無心にオーオーと叫んでおる声は、〝無〟の中から声を出しておるのではなくして、〝無〟の中に声を収めようとしておるのであろう。だが果して〝無〟の中に収められるだろうか。一つの大きな公案であろう。
 托鉢禅僧の一列は、京都でも見られたが、いまはもう殆ど見られない、と書いておるいま、思いがけなくも私の門前にオーを聞いた。相国寺の禅僧であろうか。珍しい一瞬であった。托鉢禅僧姿の俳味は淡々たる渋味である。
 それが、円福寺への道で、遇うことが出来るかも知れぬという私の慾であった。
 近世禅界の興隆の一翼は自隠禅師(貞享2年~明和5年)であった。その門下に遂翁、東嶺、提州、斯経のいわゆる四天王がおった。
 円福寺を創立したのはその斯経である。
 臨済宗妙心寺塔頭海福院に修行しつつあった斯経は、大応国師南浦紹明)、大燈国師大徳寺開山)、関山国師妙心寺の開山慧玄)―禅宗で言う応燈関の法恩にむくい、応燈関の3道場を開こうと苦心したが、思うに任せず、黙々としてすごした。後年大阪の外護者が出来たおかげで、八幡にあった天台宗の廃寺を手に入れ、そこを修禅の道場とした。それが今訪ねんとする円福寺である。斯経がこの素懐を果したのは光格天皇天明4年(1784))のことであった。この道場は臨済宗に限らず曹洞、雲門、潟仰、法眼の四宗にも開放し、他山他派の区別を撤廃することを目的とした。まことに時代の要求に適応したものとして〝江湖禅〟とも言われる道場である。
 達磨堂には本像座像、法量2尺7寸3分、寄木造、彩色、玉眼嵌入、頭から法衣を纏い、両手を膝に重ねた座禅三味の大達磨像がある。
 聖徳太子の御作と称する。随分思い切って吹いたものだと感心する。法螺もこの位に吹くと御愛嬌になる。両肩からかるやかに流れる衣文の動き、肥満した肉体の豊かさ、打ち広げた胸、肩や膝の円味が衣文を通して窺える点、すべて鎌倉時代特有の写実的である。もと大和国、王寺にある達磨寺のものであった。寛正年間(1460~5)八幡宮祠官田中氏の邸に移されておったのを、文化4年(1807)当時の住職海門和尚が田中氏の寄進をうけて、本寺に安置したものである。
 達磨大師の像は南宋以来盛んに作られた。その親しみある姿が、わが国の凡俗にも好まれたので、室町初期以来、絵画や彫刻に相当の遺品が見られる。本像はその中でも、最も古く且つ最も傑出した作品である。少しくしかめた眉、大きく見開いた眼光、わずかに閉じた口。如何にも自然であって、しかもその内面に法力の充満した強さがある。この達磨像に会うと何となく嬉しくなって来る。何となく、一緒に坐ってみたくなる。
 本寺には珍しい国宝がある。大般若経六百巻である。多少の後補本もあるが、五百数十巻立派な天平経である。巻首に「薬師寺」の朱印が2個、その下に「坂原庄長尾宮」の黒印が1個。その裏に「薬師寺金堂」の黒印がまた1個あり、紙継目の裏には本版にせる花押が2個押してある。
 南都薬師寺の旧蔵が永正年間(1504~20)大和国添上郡坂原庄の長尾宮に寄進せられ、徳川時代になって大和多武峰談山神社の有に帰し、万治、元禄、嘉永の各時代に修理され、多武峰の社宝として誇りの種であった。
 ところが明治の排佛毀釈に遇うて多武峰から排除され、昭和7年当寺の寺宝になった。宝庫に深く納まっておるが、天平経が、かくも多数、保存されておることは、感謝されるべきである。
 本寺の南数町、山中を行くと「洞ケ峠」に出る。天王山合戦のとき大和の豪族筒井順慶がここまで兵を進め、豊臣秀吉明智光秀との勝敗を傍観し、去就を明かに示さなかった地点として有名な所である。「日和見順慶」「洞ケ峠」という特別な用語が出来た旧蹟である。
 天正10年(1582)6月2日本能寺に主君信長を朴した光秀は、毛利攻伐から軍を返すであろう秀吉を山崎天王山に防いだ。6月13日に合戦があった。
 明智光秀は名将であり智将であった。大和の筒井順慶に手をさしのべておくことを忘れなかった。同時に、秀吉とても、南都を押えておく必要は知っておった。順慶にしても、両雄の勝敗を軽視はしていない。戦勝の針は秀吉の方に動いておる、と早くも見て取った順慶からは、急使が秀吉の方に出された証拠がある。6月10日光秀の使者藤田伝五が筒井城に来たが、順慶の心はもうその時には光秀には傾かなかった。
 だから順慶は洞ケ峠で日和見をしておったのではなく、天王山に敗れたならば南都の方に逃げるであろう光秀を、そうはさせじと、その行く手を阻む役目を帯びたものであった。
 果して光秀は天王山で不利になったから、南方に退き、奈良から生駒山の東麓に廻り私市を経て、枚方に軍を進め、秀吉の背後を突かんとしたのであった。それ故に山崎から南行し、淀河を越えたが、何を思うたか急に方向を変じて醍醐から山科に出ようとして、小栗栖で殺されてしまったのである。光秀の南都入りを阻止すべく順慶が兵を構えておったからであったかも知れぬ。
 洞ケ峠の真相は如上の通りである。日和見順慶では戦国時代のきびしい波涛は乗り切れまい。
 成長株を早く見極めて、それに投資するほどの機敏さを持つ筒井氏は、室町時代以来、大和で、もまれにもまれた大和六党の随一であった。

円通寺

 中秋の夕方、鴨の河原に降り立ちて東の山辺をうち眺むれば、四方の山々みなほの黔きに山の向うにほの白き何物かが見える。まだ姿を見せぬ月影の先駆的な御光であろうか、錦糸で縫い取ったかのように、一本の細い錦布を敷き列べたかのように、東山一帯の稜線を染めなせるかと見る間に、刻々に色増し、やがて一瞬、十三夜の月は山の向うから推し挙げられた。山端に額を出す。その静粛さ、その荘厳さ。その天彩の豊かさ。
 東山から昇る月の光は、来迎阿弥陀如来衆生を引接される時の御光のように、神々しいまでの神秘である。
 もし叡岳の向うから静かに昇る月光を、その神々しさを、思う存分、思う心の幾倍かに、拝み眺めることの出来るところが、あるものならば、一度は行ってみたいと念じた。それがあった。岩倉幡枝(はなえだ)の円通寺である。
 そのような金剛界が現世にあるとは。
 洛北から鞍馬街道を北に進む。松ケ崎の妙法〝山〟というほどでもない標高76mの丘稜を越えると、漫々と水を湛える深泥ケ池に出る。右手、池に沿うて北行すると、木野から岩倉に達する。池の口で左手に取ると、100mほど急坂がある。越えた所が、幡枝という狭い平地であり、それを更に進むと、二軒茶屋から鞍馬に達する。
 もし電車を利用するならば、京福電鉄の「出町柳」から鞍馬行に乗れば「木野」の駅で下車。南行3、400m。そこに大悲山円通寺がある。
 後水尾天皇寛永6年(1629)11月8日俄かに御退位になった。女帝明正天皇の御宇が始った。天皇の御母は東福門院和子であり、徳川二代将軍秀忠の女である。奈良時代から久しく後を絶った女帝の即位をみた。この裏面に、江戸幕府の威風が吹いたであろうことは、言うまでもない。それに対して後水尾上皇は、御不満であったらしい。幕府の身勝手を嬉しくは思召されなかったかも知れない。
 上皇は、いろいろの意味においての「憂さ」を払除しよう、忘れ去ろうとせられ、その一方便として、離宮の造営を志された。
 寛永18年7月の頃から、使者を四方に出して離宮造営の候補地を物色し初められた。上皇側近者の一人であった北山鹿苑寺の住持鳳林承章(『隔萱記』という日記がある。近年出版された)のところにも人を派し衣笠山の方面、金閣の近隣に、それを求めしめられたが、恰適の場所がなかった。正保から慶安の頃になると、方面を変えて、東山叡山麓方面に求められた。高野川から岩倉山の一帯に恰好の土地を探索せしめられた。岩倉村の中に長谷殿(ながたにどの)岩倉殿といわれる御茶屋を設けて、一応の足溜りとして、それから周辺の景勝地を巡覧された。長谷殿へは正保4年(1647)10月6日、岩倉殿へは5年2月21日が、最初の御幸であった。それについで幡枝方面へは慶安2年(1649)9月13日玉歩を初めて印せられた。
 この日晴天にして暖気春三月のようであった。長谷殿へ御幸の帰途、幡枝へ御立寄り、名月観賞の御会を催された。山の中腹にある御茶屋へ登られ、そこで供奉の公卿達と御物語があり、この土地が頗る御意に叶うたらしい。明暦3年(1657)3月22日にも上皇東福門院御同伴でここに御幸。一夜御逗留。翌日鹿苑寺の承章以下をお召しになり、上の御茶屋において御茶会を催され、ついで古御殿におりて御少憩になった。この時の座敷には御掛物、御花の飾物があり、その上御菓子の御馳走まであった。青天白日の御清遊で御機嫌斜めならずと『隔蓂記』は記しておる。
 この記事によると、上御茶屋へは山路を登らねばならなかった。それから推せば、中御茶屋、下御茶屋もあったらしい。あちこちに散置した御茶屋があったと見るべきで、その先蹤は鹿苑寺金閣のある寺)慈照寺銀閣のある寺)にあるかも知れないが、宮廷の庭園としては新しい型式であった。後水尾上皇の御発案かも知れないが、これがやがて現われる桂離宮、特についで造営される修学院離宮の、先行者的な役割を持ったであろうことは、当然である。
 古御殿とはどのような由来のあるものか、まだ判らない。
 幡枝御殿は、殊に山上の御茶屋は、余程御意に適うたと見え、慶安から明暦に、しばしば御幸があった。四季折々の月花の御遊で賑やかに風雅の道を尽くされたのであった。さもあろうと思う。そのときの御茶屋からの眺望は、今日も昔のままであろうか。
 明暦元年(1655)3月13日上皇は修学院村にあった円照寺尼公の伴松軒を訪れた。その地形、その山川風物は、痛く御意に入った。それ以上尼公に対する上皇の御意に、極めて懇切至情的なものが溢れた。
 実は後水尾天皇東福門院中宮に迎えられる前に四辻大納言公遠の女「御与津御料人」との間にもうけられた一皇女があった。東福門院入内のとき、江戸幕府の方で、それを探知して、それを口実に、邪魔を入れたことがあった。天皇の御母中和門院(近衛前久の女)は、「さることはあらじ」とてこの皇女を隠し、御与津御料人のことは抹消されて、事が納まった。この皇女はその後に鷹司関白教平の許に嫁がせられたが、幕府の青い眼白い眼はとうとう鷹司家からも追出してしまって、林丘寺にお預けした、という悲劇があった。それが円照寺尼公文智女王である。尼公は天皇の爪先を蒐めてそれで「南無阿弥陀佛」の名号を描き、父上皇の冥福を祈られたこともある(やや後のことであるが)ほど、上皇との間に至情の暖かき親しみを持っておられた。上皇またこの尼公をいとしく思召して、一しおの御親愛があった。
 円照寺御幸御訪問。それについでこの土地に修学院離宮が卜定せられるに到るのは、こうした裏面の事情が強く作用したのではなかろうか。
 となると修学院離宮の先輩として、幡枝殿は大きな意義がある。修学院離宮後水尾上皇の宸慮をつくされて完成したものであるためと、上皇の御高齢とのために、幡枝御殿の御利用は、年と共に消え去った。とうとう寛文12年(1672)8月、御殿を残して、幡枝の山と山の御茶屋等が、近衛家に下賜されることとなった。近衛基熙の時である。
 幡枝御殿はやがて円通寺という寺になるのであるが、それには、次のような歴史がある。
 後水尾上皇の思召は幡枝御殿のあとを、佛天に喜捨して皇室の御祈祷所たらしめんと遊ばしたらしい。嵯峨天皇離宮が旧嵯峨御所として大覚寺となり、寺院となったおかげで連綿千年になんなんとする法脈が、栄えた故事に倣わんずる御意であった。上皇の帰依された近江国日野にある正明寺の開山龍渓和尚に附与し禅苑としよう御素意で、天寿山資福禅寺の勅額を御揮宅になった。寛文6年(1666)3月勅額は正明寺に移され、勅使の御差遣まであった。然るに新しく禅苑を開創することは幕府の拒むところとなったので、折角の勅額も、正明寺に下附されたのであったけれども改めて林丘寺の宝庫に格納され、他日正明寺に渡された。
 龍渓は黄檗山に隠元が来たとき、何かと周旋の労を取り、万福寺の創立に力を尽くした禅僧である。正明寺の勅額が「資福禅寺」であることから推して、この「福」の字は万福寺の福と無関係ではなかろうか。中国にあっては福寿を以て人生至極最後の念願とする。天寿の山号といい、資福の寺号といい、中国の思想がありありと見えるではないか。
 詩仙堂の座敷にも丈山筆「福禄」の軸があった。福寿の二字に表わされる理想こそ上皇の至念が何であったろうかを思わしめはせぬか。上皇の世寿は御八十五。その時代としては定に稀有の御長寿でなった。
 後水尾上皇の皇子である霊元天皇の乳母は贈左大臣園基任の第二女で、後光明天皇の御母壬生院の姉、霊元天皇の御母新広義門院の叔母君に当る婦人であった。この乳母は霊元天皇御幼少の頃は、後水尾上皇の御母中和門院に属従したこともあったが、後半世ここに隠遁し文英と法名した。改めて霊元天皇の御乳母として長く奉仕したのであった。
 その隠棲地が幡枝であった。
 幡枝御殿はその縁故で、この地を卜されたのであった。
 修学院離宮東福門院の建物が移建されたと同じ頃延宝6年(1678)4月、御所の御建物の一部が幡枝にも移されて佛堂となった。改めて円光院文英尼を開基とした。それが現在の御殿である。佛堂に隠元筆の扁額が掲げてある。大悲山円通寺は、かくして成立。山号寺号ともに後水尾上皇の宸翰があり、扁額として現存する。
 延宝8年(1680)8月後水尾上皇登遐。ついで文英尼も病床に親しむこととなった。霊元天皇いたく本寺の将来に御珍念あり、御内弩中から当分の間年々30石を下賜されることになった。
 そのときの宸翰を嘗て拝したことがあった。御こまごまとしたお心遣のほど畏いことと存じた。次に掲げて見る。濁点は私に附した。
 「大悲山円通寺の事は、とし頃のねがひをとげられ候て、建立の地に候へば、末代までもつゝがなく候へかしと、おもひ候事に候。ことさらに、この菩薩は、度々の霊験もあらたなる事にて、自余に混ぜざる子細も御入候上に、故院勅額をも給候事に候へば、長く祈願所にさだめ候事にて候、此寺の事は、子孫にいたりさぶろとも、おろそかになるまじく候まゝ、すヘゞまでも、心やすかるべく候
 延宝8年10月26日(御花押)
 円通禅尼へ」
別に一通「ゑん光院」に宛てた長橋局の女房文があって、その中に「…寺領もこぬうちは、僧侶のすまゐもなりかたく候よふにおぼしめし候まゝ少しの事にては候へ共、寺領もととのひ候までは、御内しょうより、三十石づゝくだされ候事にて候。…性通も、ゑんつうじの事、万心にいれ候て御よろこび候より、日とひ御申あげ候て、きこしめされ、きどくなる事とおぼしめし候、ゑん光御後にも、寺のためいよゝそりゃくなきように、よくゝ申きかされ候べくも…」とあって、寺の行末までに、御意を注がれておることが推知せられる。
 霊元天皇東山天皇に御譲位後、法皇として、佛門帰依の日を送られたが、円通寺の一角に潮音堂という一堂を構造し、観世音菩薩を本尊とされた。正徳元年(1711)10月松木前大納言は霊元法皇の思召を体して、数ケ条の覚書を交附した。その中に円通寺の永代修理その他の費用に宛てるために、白銀300枚を妙心寺に預けておいたから、その利銀をもって、本寺のために使用すべき事を命じた一項もある。なかなかに進んだ新しい資金運営法があったことに感心する。ともかく本寺の立ち行くように末々までも思念されたことが知られる。恭い思召に感泣したのは円通寺だけではあるまい。その利銀使用に立合うべき数名の人が指定されてあるが、その中にさきに出ておった性通の名も見える。
 霊元法皇の幡枝御幸は、享保15年(1730)4月12日に実現した。御即位の以前、法皇が此の地を去られた寛文元年から69年目のことである。それ迄に幾度か行幸御幸の思召は漏らされたが、幕府の意向もあって、どうしても実現しなかった。今や、漸くにして其の日を迎えた。御幼少の時の思出が70年という月日を扶んで、どの程度に幡枝御殿の内外に残存しておったろうか。
 潮音堂の本尊に御三拝。普門品を謹誦された後、御親筆の『般若心経』を宝前に納められた。
 七十(なゝそち)の一とせたらぬ昔わが、みし此寺を、今もとひきて
の玉詠があった。
 山内を御遊歩の後、東御茶屋(現存せず)で供奉の人たちと乾飯を召され、探題の和歌詠進の御興があった。初夏のうららかさに、田園の風物と相映えて、まことに清く美しき御一日であった。
 以上、ながながと円通寺の歴史を物語ったのは、わけがある。円通寺の由緒は模糊として明らかでなかった。先年工学博士森蘊氏が詳しく研究され、「円通寺について」を発表されたのでそのおかげで、充分なことが教えられたから、森氏の学恩に御礼をいいたかったからである。諒とせられよ。
 さて、円通寺へ来たのは、後水尾上皇霊元上皇を中心にする寺の歴史に興味があったからのことではなかった、はずである。
 東山三十六峰から昇る旭や夕日ではなくして、叡岳を踏み台にして沖天にさしかかる陽の男神、陰の女神の神々しさを拝みたかったからである。朝日や夕月と、比叡の霊峰、との組合せによって、どのような神秘さを醸し出すかを、教えられたかったからである。今宵の十三夜が、どのような月光を、この寺に、この庭に注ぐかを、心待ちに待とうためである。
 それ迄に、まだ時間がある。寺の客殿に坐って、お庭を拝見しよう。
 名高い円通寺の庭は決して広くはない。その狭い庭を広宏としたものに思わすのは、巧みな借景の技法の魔力である。庭の前面にある美しいが低い生垣を越して、向うに見ゆる比叡山は、恰も左右に衣の袖をゆるやかに流し泰然と坐った神仙にも見える。叡岳をこの庭の遠景と言うべきか、山の屏風というベきか、借景の極致であろう。
 縁側の限られたる空間を占める苔庭が狭いのか、広いのか。生垣で遠景と近景とが一応のところでは限られてあるのが、観点を変えると軒下まで迫った松苔が、そのまま生垣を越えて、民家の屋根を飛んで、叡山の山肌まで連々とつづくやにも見える。大海原の波の静けさである。
 雄大とか壮一麗とか言った形容詞ではとても表現し得ぬ天地である。正面に響ゆるは三千衆徒の屯う比叡山であるが、その向うは、月輪の棲家であろう。日輪の憩い所であろう。柄爛たる日輪よ。48,000の聖鳥に護られて天に沖せよ。冷澄たる月輪よ。84,000の玉兎を従えて、空に舞え。慈悲の妙大雲は恐らく甘露の法雨を満いでくれるであろう。
 ふと気附くと前庭の左方に洗々とした白石が、青苔の間に脈を打っておる。青海原の白い波頭であろうか。潮音堂から流れる誦経梵音に和して、妙音観世音の弘誓を暗示するものであろうか。
 人倫を絶した妙佳の庭。それを眺める座敷がいささか高い。庭面との距離が大きい。それをも気附いておる人が少いほど、渾然として円通寺の庭の精神を、胸に抱いて帰ろう。はればれとしたさわやかさが心の隅々にまで流動する。
 円通寺の庭を拝見する毎に、実は、私の心は暗うなる。言うまでもなくこの絶妙景観を、どうすれば破壊せずして千古─とまでは言えないにしても―100年の後まで伝え得るであろうか、の希望と困憊とである。
 何とかして、一人でも多くの人に見てもらって、このような絶美が人の世に在ることに感謝してほしいと念ずる一面、心なき来観者の不作法不調法の態度のために、浄域が穢されて行くであろう心配である。古庭園観賞が何の意義を有するものかを、知りもせず、考えもせず、ただ世間の手前で見に来ておるのだろうと推定される人が、今日もなおおった。このような来観者に接して、和尚の心は乱れるであろう。見せたくない、見てほしくない、と思いはせぬだろうか。
 それを見せる事が宗教心であろうか。拒むことが佛心であろうか。思えば、この案内記は佛罰ものであろう。

社寺マニアにピッタリの路

 南禅寺から知恩院へ抜けるには、岡崎経由と粟田口経由の2通りある。前者は疏水の流れにそって動物園、美術館、平安神官を横目に眺めながら、神宮道を南下する。後者は南禅寺境内をインクライン下のトンネルから京津国道に出たら、華頂山北麓の山道を縫って仏光寺本廟や良恩寺をさぐり、青蓮院の横手へ出る。このガイドは社寺マニア向きの後者を主とする。
 南禅寺へは、市電だと天王町、市バスは法勝寺町、京津電車は蹴上で下車後、歩くほかない。この寺は臨済宗南禅寺派大本山であり、中世以降衰えたとはいえ、なお12の塔頭と無数の国宝重文殿舎を持つ壮大な大寺院。とくに五右衛門「楼門五三桐」で名高い重文三門は日本一の門だ。境内聴松院の湯豆腐は一式で400円位。
 境内を思いきり東北へ進み、トンネルを抜けると京津間の国道1号線へ出る。トンネルの上は、今は使われない疏水インクラインだ。昔はこれで舟を引き上げ、京津間に舟運を通した。南側には都ホテルの大ビルが華頂山中腹にそびえる。
 西へ約200mほど山の中へはいると、粟田神社がある。周囲は都心と思えぬ静寂境だ。すぐ東が浄土宗良恩寺。昔は裏‐が華頂山火葬場で、ここで引導渡ししたとかで引導地蔵というのがある。寺宝の手取釜には大閤ゆかりの逸話がある。東隣は仏光寺本廟。元禄年間の創建だが、本山から移した親鸞上人の遺骨をまつる舎利塔がある。
 粟田神社から西へ回り、更に山へはいると天台宗青蓮院派の寺である尊勝院がある。藤原末期の創建で仏像が多い。参詣人もなく静寂そのもので、境内からの眺望はすばらしい。岡崎から吉田、北白川までを一望に納め、黒谷の塔と相対する。そのまま西へ地続きに青蓮院がある。この寺は名にしおう天台宗最高の門跡寺院で夜の観光バスも停車する。ここで初めて道は一般観光コースに戻る。さらに南隣の知恩院から円山道は京の観光銀座と呼ばれているところだ。

睡蓮の花咲く浄瑠璃寺

 つい数年前までは、堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」をたずさえた、ごく僅かな人影が、簡素な山門をくぐる程度の閑寂境なったが、最近は文字通りの〝古寺ブーム〟で、交通網も発達し、奈良からの直通バスが乗り入れているほどだ。農家の庭には、にわか仕立ての茶店までが出来、休日などには″〝名物とろろ〟の客で満員になることもあると言う。

〝板の間の冷たさを足裏に感じながら、薄暗い堂ぬち〟での〝みほとけとの対話〟などと言う厳粛な精神主義は、すでに過去のものという感がいくらかはあっても、美の世界に遊んで楽しもうという人達にとっては、恰好の場所と言えよう。

 浄瑠璃寺は、860年前に行基によって創建され藤原時代の阿弥陀堂の姿を伝える完全唯一の古寺である。定朝作の仏像を9体安置しているところから、一名九体寺とも呼ばれる。その中には、重要文化財となっている木像着色の華麗な吉祥天女像がある。

 奈良からの足の便がよいためか〝大和古寺〟のひとつと考えられがちだが、実は京都府相楽郡加茂町にある。

 境内の大池いちめんに、睡蓮の花がひらく初夏の景観が実にみごとだ。特に朝のうちが良い。

 間口11間、奥行4間の細長い本堂の、王朝風で繊細な木組みに、また居並ぶ9体の金色の仏像群にほのかな花あかりが及んでいる。それは人工光線ではかもし出すことのできない自然美なのだ。

 また深い木立に囲まれた池の水面に、白や黄やピンクの花が浮かぶ情景は、見る人にまさしく浄土へ来た感を抱かせるであろう。

 残念なのは、吉祥天女像の開帳が4・5・10・11月のみで、花の咲く頃には扉が閉ざされていることだ。

 睡蓮を観賞したあとは、岩船寺への山路をたどることをお薦めする。道端の草むらの蔭にいいくつもの野の仏が人から忘れ去られたように、ひっそりと置かれている。季節の果実や手作りのカキモチ、ワサビなどを棒につるして下げた無人ポストなどもあってひなびた山村の風情をじゅうぶん満喫できる。

 さわやかな初夏の陽射しのなかを、石仏を探勝しながらゆけば、約30分で岩船寺に到着する。

 交通は関西本線加茂駅からバス15分。