京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

円通寺

 中秋の夕方、鴨の河原に降り立ちて東の山辺をうち眺むれば、四方の山々みなほの黔きに山の向うにほの白き何物かが見える。まだ姿を見せぬ月影の先駆的な御光であろうか、錦糸で縫い取ったかのように、一本の細い錦布を敷き列べたかのように、東山一帯の稜線を染めなせるかと見る間に、刻々に色増し、やがて一瞬、十三夜の月は山の向うから推し挙げられた。山端に額を出す。その静粛さ、その荘厳さ。その天彩の豊かさ。
 東山から昇る月の光は、来迎阿弥陀如来衆生を引接される時の御光のように、神々しいまでの神秘である。
 もし叡岳の向うから静かに昇る月光を、その神々しさを、思う存分、思う心の幾倍かに、拝み眺めることの出来るところが、あるものならば、一度は行ってみたいと念じた。それがあった。岩倉幡枝(はなえだ)の円通寺である。
 そのような金剛界が現世にあるとは。
 洛北から鞍馬街道を北に進む。松ケ崎の妙法〝山〟というほどでもない標高76mの丘稜を越えると、漫々と水を湛える深泥ケ池に出る。右手、池に沿うて北行すると、木野から岩倉に達する。池の口で左手に取ると、100mほど急坂がある。越えた所が、幡枝という狭い平地であり、それを更に進むと、二軒茶屋から鞍馬に達する。
 もし電車を利用するならば、京福電鉄の「出町柳」から鞍馬行に乗れば「木野」の駅で下車。南行3、400m。そこに大悲山円通寺がある。
 後水尾天皇寛永6年(1629)11月8日俄かに御退位になった。女帝明正天皇の御宇が始った。天皇の御母は東福門院和子であり、徳川二代将軍秀忠の女である。奈良時代から久しく後を絶った女帝の即位をみた。この裏面に、江戸幕府の威風が吹いたであろうことは、言うまでもない。それに対して後水尾上皇は、御不満であったらしい。幕府の身勝手を嬉しくは思召されなかったかも知れない。
 上皇は、いろいろの意味においての「憂さ」を払除しよう、忘れ去ろうとせられ、その一方便として、離宮の造営を志された。
 寛永18年7月の頃から、使者を四方に出して離宮造営の候補地を物色し初められた。上皇側近者の一人であった北山鹿苑寺の住持鳳林承章(『隔萱記』という日記がある。近年出版された)のところにも人を派し衣笠山の方面、金閣の近隣に、それを求めしめられたが、恰適の場所がなかった。正保から慶安の頃になると、方面を変えて、東山叡山麓方面に求められた。高野川から岩倉山の一帯に恰好の土地を探索せしめられた。岩倉村の中に長谷殿(ながたにどの)岩倉殿といわれる御茶屋を設けて、一応の足溜りとして、それから周辺の景勝地を巡覧された。長谷殿へは正保4年(1647)10月6日、岩倉殿へは5年2月21日が、最初の御幸であった。それについで幡枝方面へは慶安2年(1649)9月13日玉歩を初めて印せられた。
 この日晴天にして暖気春三月のようであった。長谷殿へ御幸の帰途、幡枝へ御立寄り、名月観賞の御会を催された。山の中腹にある御茶屋へ登られ、そこで供奉の公卿達と御物語があり、この土地が頗る御意に叶うたらしい。明暦3年(1657)3月22日にも上皇東福門院御同伴でここに御幸。一夜御逗留。翌日鹿苑寺の承章以下をお召しになり、上の御茶屋において御茶会を催され、ついで古御殿におりて御少憩になった。この時の座敷には御掛物、御花の飾物があり、その上御菓子の御馳走まであった。青天白日の御清遊で御機嫌斜めならずと『隔蓂記』は記しておる。
 この記事によると、上御茶屋へは山路を登らねばならなかった。それから推せば、中御茶屋、下御茶屋もあったらしい。あちこちに散置した御茶屋があったと見るべきで、その先蹤は鹿苑寺金閣のある寺)慈照寺銀閣のある寺)にあるかも知れないが、宮廷の庭園としては新しい型式であった。後水尾上皇の御発案かも知れないが、これがやがて現われる桂離宮、特についで造営される修学院離宮の、先行者的な役割を持ったであろうことは、当然である。
 古御殿とはどのような由来のあるものか、まだ判らない。
 幡枝御殿は、殊に山上の御茶屋は、余程御意に適うたと見え、慶安から明暦に、しばしば御幸があった。四季折々の月花の御遊で賑やかに風雅の道を尽くされたのであった。さもあろうと思う。そのときの御茶屋からの眺望は、今日も昔のままであろうか。
 明暦元年(1655)3月13日上皇は修学院村にあった円照寺尼公の伴松軒を訪れた。その地形、その山川風物は、痛く御意に入った。それ以上尼公に対する上皇の御意に、極めて懇切至情的なものが溢れた。
 実は後水尾天皇東福門院中宮に迎えられる前に四辻大納言公遠の女「御与津御料人」との間にもうけられた一皇女があった。東福門院入内のとき、江戸幕府の方で、それを探知して、それを口実に、邪魔を入れたことがあった。天皇の御母中和門院(近衛前久の女)は、「さることはあらじ」とてこの皇女を隠し、御与津御料人のことは抹消されて、事が納まった。この皇女はその後に鷹司関白教平の許に嫁がせられたが、幕府の青い眼白い眼はとうとう鷹司家からも追出してしまって、林丘寺にお預けした、という悲劇があった。それが円照寺尼公文智女王である。尼公は天皇の爪先を蒐めてそれで「南無阿弥陀佛」の名号を描き、父上皇の冥福を祈られたこともある(やや後のことであるが)ほど、上皇との間に至情の暖かき親しみを持っておられた。上皇またこの尼公をいとしく思召して、一しおの御親愛があった。
 円照寺御幸御訪問。それについでこの土地に修学院離宮が卜定せられるに到るのは、こうした裏面の事情が強く作用したのではなかろうか。
 となると修学院離宮の先輩として、幡枝殿は大きな意義がある。修学院離宮後水尾上皇の宸慮をつくされて完成したものであるためと、上皇の御高齢とのために、幡枝御殿の御利用は、年と共に消え去った。とうとう寛文12年(1672)8月、御殿を残して、幡枝の山と山の御茶屋等が、近衛家に下賜されることとなった。近衛基熙の時である。
 幡枝御殿はやがて円通寺という寺になるのであるが、それには、次のような歴史がある。
 後水尾上皇の思召は幡枝御殿のあとを、佛天に喜捨して皇室の御祈祷所たらしめんと遊ばしたらしい。嵯峨天皇離宮が旧嵯峨御所として大覚寺となり、寺院となったおかげで連綿千年になんなんとする法脈が、栄えた故事に倣わんずる御意であった。上皇の帰依された近江国日野にある正明寺の開山龍渓和尚に附与し禅苑としよう御素意で、天寿山資福禅寺の勅額を御揮宅になった。寛文6年(1666)3月勅額は正明寺に移され、勅使の御差遣まであった。然るに新しく禅苑を開創することは幕府の拒むところとなったので、折角の勅額も、正明寺に下附されたのであったけれども改めて林丘寺の宝庫に格納され、他日正明寺に渡された。
 龍渓は黄檗山に隠元が来たとき、何かと周旋の労を取り、万福寺の創立に力を尽くした禅僧である。正明寺の勅額が「資福禅寺」であることから推して、この「福」の字は万福寺の福と無関係ではなかろうか。中国にあっては福寿を以て人生至極最後の念願とする。天寿の山号といい、資福の寺号といい、中国の思想がありありと見えるではないか。
 詩仙堂の座敷にも丈山筆「福禄」の軸があった。福寿の二字に表わされる理想こそ上皇の至念が何であったろうかを思わしめはせぬか。上皇の世寿は御八十五。その時代としては定に稀有の御長寿でなった。
 後水尾上皇の皇子である霊元天皇の乳母は贈左大臣園基任の第二女で、後光明天皇の御母壬生院の姉、霊元天皇の御母新広義門院の叔母君に当る婦人であった。この乳母は霊元天皇御幼少の頃は、後水尾上皇の御母中和門院に属従したこともあったが、後半世ここに隠遁し文英と法名した。改めて霊元天皇の御乳母として長く奉仕したのであった。
 その隠棲地が幡枝であった。
 幡枝御殿はその縁故で、この地を卜されたのであった。
 修学院離宮東福門院の建物が移建されたと同じ頃延宝6年(1678)4月、御所の御建物の一部が幡枝にも移されて佛堂となった。改めて円光院文英尼を開基とした。それが現在の御殿である。佛堂に隠元筆の扁額が掲げてある。大悲山円通寺は、かくして成立。山号寺号ともに後水尾上皇の宸翰があり、扁額として現存する。
 延宝8年(1680)8月後水尾上皇登遐。ついで文英尼も病床に親しむこととなった。霊元天皇いたく本寺の将来に御珍念あり、御内弩中から当分の間年々30石を下賜されることになった。
 そのときの宸翰を嘗て拝したことがあった。御こまごまとしたお心遣のほど畏いことと存じた。次に掲げて見る。濁点は私に附した。
 「大悲山円通寺の事は、とし頃のねがひをとげられ候て、建立の地に候へば、末代までもつゝがなく候へかしと、おもひ候事に候。ことさらに、この菩薩は、度々の霊験もあらたなる事にて、自余に混ぜざる子細も御入候上に、故院勅額をも給候事に候へば、長く祈願所にさだめ候事にて候、此寺の事は、子孫にいたりさぶろとも、おろそかになるまじく候まゝ、すヘゞまでも、心やすかるべく候
 延宝8年10月26日(御花押)
 円通禅尼へ」
別に一通「ゑん光院」に宛てた長橋局の女房文があって、その中に「…寺領もこぬうちは、僧侶のすまゐもなりかたく候よふにおぼしめし候まゝ少しの事にては候へ共、寺領もととのひ候までは、御内しょうより、三十石づゝくだされ候事にて候。…性通も、ゑんつうじの事、万心にいれ候て御よろこび候より、日とひ御申あげ候て、きこしめされ、きどくなる事とおぼしめし候、ゑん光御後にも、寺のためいよゝそりゃくなきように、よくゝ申きかされ候べくも…」とあって、寺の行末までに、御意を注がれておることが推知せられる。
 霊元天皇東山天皇に御譲位後、法皇として、佛門帰依の日を送られたが、円通寺の一角に潮音堂という一堂を構造し、観世音菩薩を本尊とされた。正徳元年(1711)10月松木前大納言は霊元法皇の思召を体して、数ケ条の覚書を交附した。その中に円通寺の永代修理その他の費用に宛てるために、白銀300枚を妙心寺に預けておいたから、その利銀をもって、本寺のために使用すべき事を命じた一項もある。なかなかに進んだ新しい資金運営法があったことに感心する。ともかく本寺の立ち行くように末々までも思念されたことが知られる。恭い思召に感泣したのは円通寺だけではあるまい。その利銀使用に立合うべき数名の人が指定されてあるが、その中にさきに出ておった性通の名も見える。
 霊元法皇の幡枝御幸は、享保15年(1730)4月12日に実現した。御即位の以前、法皇が此の地を去られた寛文元年から69年目のことである。それ迄に幾度か行幸御幸の思召は漏らされたが、幕府の意向もあって、どうしても実現しなかった。今や、漸くにして其の日を迎えた。御幼少の時の思出が70年という月日を扶んで、どの程度に幡枝御殿の内外に残存しておったろうか。
 潮音堂の本尊に御三拝。普門品を謹誦された後、御親筆の『般若心経』を宝前に納められた。
 七十(なゝそち)の一とせたらぬ昔わが、みし此寺を、今もとひきて
の玉詠があった。
 山内を御遊歩の後、東御茶屋(現存せず)で供奉の人たちと乾飯を召され、探題の和歌詠進の御興があった。初夏のうららかさに、田園の風物と相映えて、まことに清く美しき御一日であった。
 以上、ながながと円通寺の歴史を物語ったのは、わけがある。円通寺の由緒は模糊として明らかでなかった。先年工学博士森蘊氏が詳しく研究され、「円通寺について」を発表されたのでそのおかげで、充分なことが教えられたから、森氏の学恩に御礼をいいたかったからである。諒とせられよ。
 さて、円通寺へ来たのは、後水尾上皇霊元上皇を中心にする寺の歴史に興味があったからのことではなかった、はずである。
 東山三十六峰から昇る旭や夕日ではなくして、叡岳を踏み台にして沖天にさしかかる陽の男神、陰の女神の神々しさを拝みたかったからである。朝日や夕月と、比叡の霊峰、との組合せによって、どのような神秘さを醸し出すかを、教えられたかったからである。今宵の十三夜が、どのような月光を、この寺に、この庭に注ぐかを、心待ちに待とうためである。
 それ迄に、まだ時間がある。寺の客殿に坐って、お庭を拝見しよう。
 名高い円通寺の庭は決して広くはない。その狭い庭を広宏としたものに思わすのは、巧みな借景の技法の魔力である。庭の前面にある美しいが低い生垣を越して、向うに見ゆる比叡山は、恰も左右に衣の袖をゆるやかに流し泰然と坐った神仙にも見える。叡岳をこの庭の遠景と言うべきか、山の屏風というベきか、借景の極致であろう。
 縁側の限られたる空間を占める苔庭が狭いのか、広いのか。生垣で遠景と近景とが一応のところでは限られてあるのが、観点を変えると軒下まで迫った松苔が、そのまま生垣を越えて、民家の屋根を飛んで、叡山の山肌まで連々とつづくやにも見える。大海原の波の静けさである。
 雄大とか壮一麗とか言った形容詞ではとても表現し得ぬ天地である。正面に響ゆるは三千衆徒の屯う比叡山であるが、その向うは、月輪の棲家であろう。日輪の憩い所であろう。柄爛たる日輪よ。48,000の聖鳥に護られて天に沖せよ。冷澄たる月輪よ。84,000の玉兎を従えて、空に舞え。慈悲の妙大雲は恐らく甘露の法雨を満いでくれるであろう。
 ふと気附くと前庭の左方に洗々とした白石が、青苔の間に脈を打っておる。青海原の白い波頭であろうか。潮音堂から流れる誦経梵音に和して、妙音観世音の弘誓を暗示するものであろうか。
 人倫を絶した妙佳の庭。それを眺める座敷がいささか高い。庭面との距離が大きい。それをも気附いておる人が少いほど、渾然として円通寺の庭の精神を、胸に抱いて帰ろう。はればれとしたさわやかさが心の隅々にまで流動する。
 円通寺の庭を拝見する毎に、実は、私の心は暗うなる。言うまでもなくこの絶妙景観を、どうすれば破壊せずして千古─とまでは言えないにしても―100年の後まで伝え得るであろうか、の希望と困憊とである。
 何とかして、一人でも多くの人に見てもらって、このような絶美が人の世に在ることに感謝してほしいと念ずる一面、心なき来観者の不作法不調法の態度のために、浄域が穢されて行くであろう心配である。古庭園観賞が何の意義を有するものかを、知りもせず、考えもせず、ただ世間の手前で見に来ておるのだろうと推定される人が、今日もなおおった。このような来観者に接して、和尚の心は乱れるであろう。見せたくない、見てほしくない、と思いはせぬだろうか。
 それを見せる事が宗教心であろうか。拒むことが佛心であろうか。思えば、この案内記は佛罰ものであろう。

社寺マニアにピッタリの路

 南禅寺から知恩院へ抜けるには、岡崎経由と粟田口経由の2通りある。前者は疏水の流れにそって動物園、美術館、平安神官を横目に眺めながら、神宮道を南下する。後者は南禅寺境内をインクライン下のトンネルから京津国道に出たら、華頂山北麓の山道を縫って仏光寺本廟や良恩寺をさぐり、青蓮院の横手へ出る。このガイドは社寺マニア向きの後者を主とする。
 南禅寺へは、市電だと天王町、市バスは法勝寺町、京津電車は蹴上で下車後、歩くほかない。この寺は臨済宗南禅寺派大本山であり、中世以降衰えたとはいえ、なお12の塔頭と無数の国宝重文殿舎を持つ壮大な大寺院。とくに五右衛門「楼門五三桐」で名高い重文三門は日本一の門だ。境内聴松院の湯豆腐は一式で400円位。
 境内を思いきり東北へ進み、トンネルを抜けると京津間の国道1号線へ出る。トンネルの上は、今は使われない疏水インクラインだ。昔はこれで舟を引き上げ、京津間に舟運を通した。南側には都ホテルの大ビルが華頂山中腹にそびえる。
 西へ約200mほど山の中へはいると、粟田神社がある。周囲は都心と思えぬ静寂境だ。すぐ東が浄土宗良恩寺。昔は裏‐が華頂山火葬場で、ここで引導渡ししたとかで引導地蔵というのがある。寺宝の手取釜には大閤ゆかりの逸話がある。東隣は仏光寺本廟。元禄年間の創建だが、本山から移した親鸞上人の遺骨をまつる舎利塔がある。
 粟田神社から西へ回り、更に山へはいると天台宗青蓮院派の寺である尊勝院がある。藤原末期の創建で仏像が多い。参詣人もなく静寂そのもので、境内からの眺望はすばらしい。岡崎から吉田、北白川までを一望に納め、黒谷の塔と相対する。そのまま西へ地続きに青蓮院がある。この寺は名にしおう天台宗最高の門跡寺院で夜の観光バスも停車する。ここで初めて道は一般観光コースに戻る。さらに南隣の知恩院から円山道は京の観光銀座と呼ばれているところだ。

睡蓮の花咲く浄瑠璃寺

 つい数年前までは、堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」をたずさえた、ごく僅かな人影が、簡素な山門をくぐる程度の閑寂境なったが、最近は文字通りの〝古寺ブーム〟で、交通網も発達し、奈良からの直通バスが乗り入れているほどだ。農家の庭には、にわか仕立ての茶店までが出来、休日などには″〝名物とろろ〟の客で満員になることもあると言う。

〝板の間の冷たさを足裏に感じながら、薄暗い堂ぬち〟での〝みほとけとの対話〟などと言う厳粛な精神主義は、すでに過去のものという感がいくらかはあっても、美の世界に遊んで楽しもうという人達にとっては、恰好の場所と言えよう。

 浄瑠璃寺は、860年前に行基によって創建され藤原時代の阿弥陀堂の姿を伝える完全唯一の古寺である。定朝作の仏像を9体安置しているところから、一名九体寺とも呼ばれる。その中には、重要文化財となっている木像着色の華麗な吉祥天女像がある。

 奈良からの足の便がよいためか〝大和古寺〟のひとつと考えられがちだが、実は京都府相楽郡加茂町にある。

 境内の大池いちめんに、睡蓮の花がひらく初夏の景観が実にみごとだ。特に朝のうちが良い。

 間口11間、奥行4間の細長い本堂の、王朝風で繊細な木組みに、また居並ぶ9体の金色の仏像群にほのかな花あかりが及んでいる。それは人工光線ではかもし出すことのできない自然美なのだ。

 また深い木立に囲まれた池の水面に、白や黄やピンクの花が浮かぶ情景は、見る人にまさしく浄土へ来た感を抱かせるであろう。

 残念なのは、吉祥天女像の開帳が4・5・10・11月のみで、花の咲く頃には扉が閉ざされていることだ。

 睡蓮を観賞したあとは、岩船寺への山路をたどることをお薦めする。道端の草むらの蔭にいいくつもの野の仏が人から忘れ去られたように、ひっそりと置かれている。季節の果実や手作りのカキモチ、ワサビなどを棒につるして下げた無人ポストなどもあってひなびた山村の風情をじゅうぶん満喫できる。

 さわやかな初夏の陽射しのなかを、石仏を探勝しながらゆけば、約30分で岩船寺に到着する。

 交通は関西本線加茂駅からバス15分。

明日の京都と二十歳の原点

「京都駅につき、しみじみと懐かしさを感じた」と『二十歳の原点』で高野悦子は帰省先から戻ってきた時の思いを残している。「私の願いは、京都に出来るだけ京都の持つ良さを遺してほしいと思うことである。京都の持つ良さとは、日本の洗練された良さであり、日本の故郷的な香りである」と東山魁夷は画家としていっている。旅人的傍観者と京都で生活している者との間には、どうしてもひとつの大きな断層があることはしかたがないことである。アントニイ・レイモンドは「京都にぶざまなタワーができたとき、京都、奈良、鎌倉がバーバリズムによってその美しさを失っていくとき何をしたか」と強く言っているが、その京都タワーは、そうぶざまでもなく、巨大な甍の群れと共生をはじめていると、私は思う。東京へ都が移った時、第二の奈良とならぬために、たくましく近代化を進めた人々は、「古いもの」をすべてなくそうとさえした。例えば宇治の平等院も売りにだされたほどで、それ程の気がまえがなければ近代化を進めることができなかった。私たちはくずれる寸前の土塀の道に感傷的な「美」を求めることがあるが、そこに生活する者にとっては、美ではなく貧しさにすぎない。

 冒頭紹介した高野悦子が京都の大学に進学した理由の一つが多くの寺社の存在であった。では、古寺社をかかえた土地では、近代化をはかるにはどうすればいいのだろうか。どう考えても、終極にはひとつの大きな矛盾にぶつかるのではなかろうか。ただひとつ言えることは、京都にかつて建物をたてた人々以上に現代の建築家は自然とのパランスを考えているだろうか、ということだ。その建物の美だけを考えずに、自然との調和を真剣に考えねばならない。京都の美は自然のものではなく、ほとんどが造られたものである。鴨川の流れも、高瀬川も、疏水べりの道も、すべて人間の知恵の創造物である。川端康成は『古都』の中で、青蓮院の楠を大きい盆栽であるとし、それに対して千重子は、「それが京都やおへんの、山でも、川でも、人でも、…」と言う。

 旅行者の求める京都はふたつあると思う。ひとつは過去の国であり、他のひとつは近代化の進んでいない豊かな自然だと考える。現代の京都では、このふたつがまだ分離しないで残されている点で、日本人の心のふるさととしての価値がある。単なる過去の再現なら、最近流行の遊園地とか明治村にそれがおこなわれているわけである。建礼門院の物語の大原の里に、巨大な鉄筋ビルがつくられるとすれば、もはや京都は日本人の心のふるさとではなくなるだろう。賀茂川の堤にケヤキの巨木が並び、桜が緑の群をつくっているから、葵祭も王朝のムードが再現できるのだと思う。

 『二十歳の原点』の中でクラスコンパが開かれたという洛北の植物園も、次第に田園地帯が宅地化する中にあって、最後の砦的な役目をもっているのかもしれない。植えられた植物の緑だけでなく、借景式庭園と同様に、比叡山の緑と共に存在しているのである。

 山々の緑と水の清らかさだけは、どうしても保たればならないと思う。京都がそれを失ったら、もはや存在理由はないと思う。

 古都はやがて「幻」になるのかもしれない。心のふるさとに思いをはせ、やってきた旅人は、はじめは恋こがれていた人に再会した喜びがあったとしても、期待していたすべてを満足することができないだろう。ふるさとは遠くにありて思うもの、といった言葉が正しいとすれば、京都の秋はさびしすぎる。春の日に、再び明日の京都について考えてみよう。

大徳寺

 日常茶飯事といわれるように、茶を飲むことは最もありふれた日常の行為であるが、日本では「茶道」と呼ばれる特異な茶の飲み方が発達して、世界にも例のない美の世界を樹立した。茶に用いる道具、それを扱う動作、室の飾り、客に茶をすすめる時、すすめられた時どうするかなどが、一種の礼式化して、「茶」は「道」としての精神的な深まりを持つようになった。また、道具ひとつ、飾りひとつにも、何を美しいと考えるかという美の規準が必要となり、新たな美を生み出したのである。

 千利休朝顔の花が美しく咲いたからと、秀吉を茶に招いた。秀吉は喜んで早朝訪れて見ると、たくさんあるはずの朝顔はひとつもない。これはどうしたことかと半ば立腹しつつ茶室に入ると、床の間にたった一輪、朝顔が生けてあった。その美しさに、さすがの秀吉も思わず息をのんだという話がある。茶をたてるということは、美の演出家になることでもあった。

 茶はその精神的なよりどころを禅に求めた。否、むしろ「茶禅一味」ということばが示すように、茶と禅とは最初から分かち難く結びついていたともいえる。「点茶は全く禅法にして自性を了解する工夫なり」(『禅茶録』)。心を静めて自己を.発見し、悟りを開く道であって、精神修養、仏道修行の一方法と考えられていた。禅宗の中でも、臨済宗、特に大徳寺と茶の結びつきは深い。これは「茶の湯」の祖といわれる村田珠光(1502没)が、大徳寺の一休について禅を学んだことにもよる。「茶の湯」は珠光から紹鷗(1555没)を経て千利休に至って大成されたが、千利休もまた、大徳寺と深いつながりがあった。彼は大徳寺に三門を寄進し、その楼上に自分の本像を置いた。このことが秀吉の怒りをかった。三門を出入りする、秀吉を初めとする貴人を足下にふみつけるとは無礼だというわけである。このことがもとになったのか、利休は秀吉に切腹を命ぜられ、天正19年(1591)70歳で自害した。利休の墓は、大徳寺山内聚光院にある。

 大徳寺山内には、一体を開祖とし、村田珠光の作庭と伝えられる庭を持つ真珠庵。竜安寺の石庭とほぼ同時期に造られ、竜安寺の石庭と並び称される石庭のある大仙院など、数多くの塔頭寺院があるが、その多くは、江戸時代初期の大名によって創建されたものである。

 高桐院は、細川忠興が慶長年間に創建して、細川家の菩提寺とした。忠興は利休の茶の弟子であった。利休から形見としておくられた石灯籠を自分の墓石とし、妻ガラシヤ夫人(明智光秀の娘)とともに、高桐院の墓地に葬られている。高桐院の庭は十数株のカエデと、一基の石灯籠が立つだけの庭であるが、無雑作に見えながら、いい知れぬ趣きがある。

 孤窪庵は、小堀遠州の創建になる。江戸時代随一の作庭家として知られる遠州が、自分のために自由に造った庭で、遠州流の茶祖と仰がれる彼の芸術の最高の境地を示している。本堂の北にある茶室は「忘筌」と名づけられている。これは魚を取れば筌(魚をとる道具)を忘れる、目的を達成すれば手段を忘れるという意味である。やや技巧的にすぎるきらいもあるが、江戸時代を代表する茶の庭であることは疑えない。