京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

大原の里

 大原は京都市内を去ること約12キロ、比叡山の北西麓にある小さな盆地である。四方を山に囲まれ、中央を高野川が流れる山里で、大原の名を口にするとき、人はなぜかいちまつの哀愁を感じる。それというのも、古典文学に登場する大原は、いずれも失意の人につながっているからである。『平家物語』の建礼門院はいうまでもなく、『伊勢物語』の惟喬親王、『源氏物語』の浮舟など、実在、仮空の人物をとりまぜて、いずれも都を逃れ、世を捨てて、この大原でひたすらみ仏の救いを念じた人々の住むところであった。
  仏は常にいませどもうつつならぬぞあはれなる
  人の音せぬ暁にほのかに夢に見え給ふ
  暁しづかに寝覚めして思へば涙ぞおさへあへぬ
はかなくこの世を過してはいつかは浄土へ参るべき

 三千院内往生極楽院の弥陀三尊像(勢至菩薩は、久安4年=1148の銘を持つ)を拝するとき、いつもこのふたつの今様歌が私の脳裏にうかぶ。きちんと膝を折って、往生者を乗せる蓮台をさし出す観音菩薩の姿、人々の唯一の願いは、その上に乗せられて極楽に往生することであった。この堂を造った藤原実衡の妻、真如房尼の願いもそうであった。

 平安時代も半ばを過ぎると、世の中は何となく不安になって、全盛を誇った藤原氏も衰えを見せはじめ、釈迦が亡くなって後1500年たつと、末法乱世の世が訪れるという無気味な予言が現実化しようとする気配すら見えてくる。出家して山にこもり、学問・修行するだけの決断もできない。比叡山は女人禁制の寺である。そうした心弱い人々や女性たちの心の支えになったのは「信心あさくとも本願ふかきゆえに頼めば必ず往生す。念仏ものうけれども唱ふればさだめて来迎にあづかる功徳大なり」と説く恵心僧都(942-1017)の教えであった。この恵心の流れを汲む人が良忍(1072~1136)である。

 良忍は恵心にゆかりの深い比叡山横川で修行していたが、のちに山を下って、横川の西麓の大原に来迎院を建て、融通念仏宗と呼ばれる念仏の教えを開いた。良忍は一方、声明梵唄にもすぐれ、ために学ぶ者が多く、大原は仏教音楽の根本道場ともなった。大原を魚山と呼ぶのは、中国の声明音楽の発祥地、魚山になぞらえた呼び名である。三千院をはさんで流れるふたつの川、呂川・律川は、宮商律呂という音階名からとったものである。

 大原は念仏の里であると同時に、大原女の里でもある。大原女姿は建礼門院の姿を真似たという。後ろで合わせるべき「脚絆」を前で合わせているのは、建礼門院が誤ってそうされたのを、そのまま受けついだのだなどと伝えられる。「黒木(たきぎ)買わんせ、黒木召せ」と京の町を売り歩いた。貧しい山村では、黒木を行商する以外に収入がなかったのであろう。朝早く起きて少ない田畑を耕した後、黒木を頭にのせて京まで出かける。日がくれてから大原に帰り着き、それから明日はくわらじをつくるのが日課であったという。現在では、薪炭の需要はなくなった。その代りに、柴漬、餅などを行商する姿は今も見られる。「小原女」と書いた白衿をつけているのは八瀬の「大原女」で、その行商範囲は大阪にまで広がっている。

寂光院と勝林院

 平家没落の哀史を語る『平家物語』の巻末をかぎる「灌頂の巻」の女主人公は、平家一門の悲しみを一身に集めた観のある建礼門院である。

 文治2年(1186)4月20日すぎ、後白河法皇鞍馬寺に参詣するように見せて、そっと都を出た。行先は大原、建礼門院に会うためである。静原から江文峠を越えて大原の里に出ると、「西の山のふもとに一宇の御堂あり。すなはち寂光院これなり。ふるう作りなせる前水、木立よしある所のさまなり。『甍やぶれては霧不断の香をたき、枢おちては月常住の燈をかかぐ』とはかやうの所をや申すべき」─『平家物語』の有名な一節である。

 建礼門院が涙ながらに法皇に述べたことば。「私は仏の説きなさった六道とやらを生きながらにてすべて体験した。清盛の娘として生まれ、安徳天皇の母となり、一天四海は自分の思いのままであった。明けても暮れても楽しみ栄えた頃は、『天上』界の幸もこれほどではあるまいと思われた。ところが『人間』は、愛する者に別れ、憎しみ合う者が会わればならないとか、それも残るところなく体験させられた。源氏に追われ西海の船上で暮したときは、食べ物に不自由し、たまたま食べ物はあっても水がなくて食べられない。大海の上にいながら飲めない苦しみは、『餓鬼』の苦しみだった。しかも、絶え間のない戦いの声、大刀の音、矢の響き、それは『阿修羅』の世界だ。戦い敗れて、親は子に、夫は妻に別れる。ことに、小さい手を合わせて念仏しつつ、海に沈んで行った我が子、安徳天皇の姿は、今もなお忘れられない。人々の泣き叫ぶ声、それは『地獄』のすさまじさだった。また、死にきれず波に漂っているのを、心ならずも源氏の荒武者に捕えられてしまった。それからの毎日は『畜生』の生活としか言いようがない」

 この六道というのは、この世界を十に分けたとき、声聞・縁覚・菩薩・仏の四つの悟りの世界に対して、迷いの世界を意味するものである。生きながらにして六道をかけめぐった建礼門院は、まことに数奇な運命にもてあそばれた女性であらたといえよう。 しかし、この大原にやっと安住の地を見いだし、ひたすら我が子安徳天皇の菩提をとむらい、仏の救いを念じ続けた女院は、建久2年(1191)2月中旬「西の空に紫雲たなびき、異香室にみち、音楽空に聞こえる中で弥陀如来に迎えられ、この世を去り、永遠のやすらぎの世界に往生した」と『平家物語』は伝える。

 この源平の争いに、世の無常を感じたのは、勝者の源氏方にとっても同様であった。一ノ谷の戦いに我が子と同じ年頃の若武者平敦盛を心ならずも討ち果たした熊谷直実は、その菩提をとむらうために出家して法然の弟子となった。当時、法然の説く浄土念仏の教えに不信を'抱いた旧仏教の学僧たちが、法然に討論を申し入れる。世に「大原問答」と呼ばれるこの討論会は、文治2年(1186)、大原勝林院で開かれた。熊谷蓮生坊直実は、師に万一のことがあってはと、法衣の袖になたを隠し持って師に随行した。関東武者の心を捨てきれない蓮生坊を見た法然は、その非をさとしてなたを捨てさせる。今も勝林院の前に「なた捨て藪」と伝える跡が残っている。この時、法然の教えに感動した天台座主顕真は、勝林院で念仏の生活に入った。
寂光院

やすらい祭と葵祭

 比叡山にいた小僧が、桜の花が風に吹かれて散るのを見て、さめざめと泣いていた。それを見た僧が傍へ寄って、「なぜ泣くのか。花の散るのを見て泣きなさるのか。桜ははかないもので、このようにすぐ散ってしまうのだから、そんなに泣きなさるな」となぐさめた。僧は小僧が無常を感じて泣くのだと思ったのだ。小僧は「花が散るのは別に悲しくない。ただ、こんなに風がはげしく吹くと、父の作っている麦の花が散って実りが少ないだろうと思うと悲しいのだ」と、また声をあげて泣いた。『宇治拾遺物語』の筆者はこの話のあとに「何とも不風流な話である」と感想を述べている。当時の知識人の間では、落花は無常を感じさせるものだというのが常識であった。しかし、農民の間では、花を散らす風の吹き方が、そのまま秋の実りに結びつくものとして、より切実に感じられるのであった。鎮花祭は、花が早く散らないようにと祈るもので、奈良朝以前から、すでに行なわれていた。「高雄寺あはれなりけるつとめかな やすらひ花とつづみうつなり」と西行の歌にもあるように、京都でも各地で行なわれていたようだ。「やすらい花や(花よ散るな)」と歌うところから「やすらい祭」と呼ばれる鎮花祭の行事は、今も4月第2日曜に、紫野・今宮神社で行なわれている。

 付近の4つの里から、真紅の衣裳をまとい、赤や黒の毛をかぶった鬼の行列が、のどかな鐘や太鼓の音とともに「やすらい花や」と哀調を帯びた歌を歌って今宮神社に集まり、咲きほこる桜の下で乱舞するさまには、土の香りがにじみ出ている。鎮花祭は、花が散るのと同時に、悪い病気も広まると信じられているところから、豊作を祈るとともに悪疫退散の願いもこめて受けつがれてきたのである。

 古代においては、花や青葉は若々しい生命力の現われとして、それを身につけることによって、自分の身に生命力を移そうとした。また、それらを見るだけでも効果があるとして「花見」も行なわれた。今日、私たちが「お花見」に行かないと何か忘れものをしたように落着かないのも、案外こうした民族的風習に根ざしているのかもしれない。

 青葉の頃、5月15日には「葵祭」が行なわれる。「あおい」の若葉を頭につけるところから「葵祭」と呼ばれるこの祭は、貞観年間(859~870)に、すでに現在の形になっていたようで、祭といえばこの葵祭をさすほど親しまれていた。一般庶民が参加する祭礼ではなく、国家の行事として、天皇の使いが下・上賀茂社に参詣する行事で、もともと、「見る」祭であった。

 『源氏物語』にも、この行列を見るために車の置き場所をめぐって争いのあったさまが描かれていて、現代と大差のない混雑ぶりであったようだ。「華麗な王朝絵巻をくりひろげる」と新聞などは表現するのが常であるが、まさしく平安朝の風俗を忠実に再現して、見る人の目を見はらせる。ただ市街地で見ると、どうしても周囲の建物との調和がとれず、意外に貧弱で遠来の観光客を落胆させるようだが、賀茂川堤のケヤキ並木の青葉の下を行く時、行列は生彩を放ち始める。牛車のきしむ音、花傘の下を歩む女人の姿にも、王朝の息吹きがひしひしと感じられるのである。

賀茂神社と糺ノ森

 賀茂川と鴨川とはどう違うのかとよく質問される。現在は高野川との合流点(賀茂大橋)から上流を賀茂、下流を鴨と書き分けている。「カモ」川は古代にこの付近一帯に住んでいた加茂氏にちなんだ名前で、字の違いは、むしろ、上賀茂神社下鴨神社の勢力争いに原因があるようだ。

 両社の起原について、『山城国風土記』は次のように伝えている。
賀茂建角身命神武天皇東征の折、八咫烏に身を変えて、先導の役を果された後、大和の葛城山に宿りなさった。その後しばらくして、山城の加茂に移り、さらに木津川に沿って下って来られた。桂川と鴨川の合流点に立って『狭くあれども石川の清川なり』と鴨川の美しさがお気に召され、その上流の山麓(今の西賀茂大官の森)に鎮まりなさった。建角身命と伊可古夜姫の間にお生れになった玉依姫が、ある日賀茂川で水遊びをしておられると、丹塗りの矢が流れて来た。持ち帰って床の辺に置かれたところ、矢は立派な青年となり、ふたりは契りを交された。青年は間もなくどこへともなく姿をかくしたが、ふたりの間に男の子が生まれた。その子の成人の祝の時、祖父建角身命が、お前の父にこの杯をやれとおっしゃると、子は天に昇って行った。この御子が賀茂別雷命で、上賀茂神社の祭神である。父君は火雷命(乙訓神社の祭神)であった。また建角身命・伊可古夜姫命・玉依姫命は蓼倉の里三井の社の祭神である(三井の社は下鴨神社の中にある)」

 このように、下・上両社は密接なつながりがあると記されてはいるが、神社の形態を見ると、かなり性格が異なっているようだ。

 上賀茂神社(正式には賀茂別雷神社)は、賀茂川京都盆地流入する所(山口)に位置し、神山を御神体としている。神山は、奈良の三輪神社の御神体三輪山とよく似た円錐形の山である。また、神山の北にある貴船山も円錐形をしていて、その麓に貴船神社がある。貴船神社上賀茂神社の奥の社として、下鴨神社に対するよりもつながりが深い。水源神(水分)と山口の神との関係で、大和葛城山麓の鴨山口神社・葛城水分神社・高鴨神社などの関係に類似しており、風土記の伝える事実を裏書きしている。

 下鴨神社(正式には賀茂御祖神社)は、風土記の三井神社がその起原であろう。三井は御井である。現在御手洗社と呼ばれている境内東北隅の社の下から、戦前までは清冽な湧水が出ていた。出雲井於上社と呼ばれる社もある。御井の社は、こうした泉を水神として祭ったのが起原であろう。下鴨の西に賀茂川をへだてて出雲路という地域があり、正倉院文書によれば、神亀3年(726)には、この付近に出雲臣真足以下、50戸約420人が住んでいたことが知られる。これらの出雲氏氏神下鴨神社の起原かもしれない。加茂氏も出雲系の氏族で、その親近関係が両社を密接に結びつけたのかもしれない。これらはすべて想像で、はっきりしたことは謎につつまれている。

 平安遷都に際して、それまで京都を占拠していた加茂氏とその氏神、両賀茂社の承諾、加護がなければ新事業の完成は不可能であるという、地主神信仰もあって、賀茂社伊勢神宮に準ずる地位を与えられる。伊勢の斎院と同じく皇女が奉仕する斎王の制度も、中世まで続けられた。
上賀茂神社

深泥ガ池と宝ガ池

 マネやモネといった印象派の画家たちがアトリエを捨てて、自然の中での色彩と光の刻々の変化を発見し、そして自然の真の表情をとらえたように、いわゆる古社寺と苔むした石の庭で代表される京都から一歩をふみだしてみると、平安京以前の自然を発見することができる。

 京都市街の北郊の小丘の間には、深泥ガ池、宝ガ池といった静かなところがある。これらの池や池をとりまく四季のめぐみはすばらしく、また、一日の微妙な連続的変化の中に、たゆとう光と色の風物誌を見ることができる。ある時には、暗色の雨雲がつくる黒ずんだ水面に、コウホネの黄色があやしく点在して幻想の世界を見せてくれる。そして、数分後にははげしく雨滴が水面を打ちはじめて、すさまじい変ぼうを続けていくのだった。春早く、宝ガ池や深泥ガ池には珍しいトンボが池面に飛び、近くのくさむらには、黄と黒のだんだらのギフチョウが静かに翅をやすめている。

 宝ガ池をとりまく桜は、真近にせまる比叡山を背景に明るく咲きこぼれる。超近代的な国立京都国際会館の異様な姿も、池と山と緑、そして桜やツツジの自然の中にあっては、その異様さを十分に発揮できないようだ。たぶんこの建物を考えた人は、自然との調和を考えたことだろう。かつて「眠りこけた愚者の楽園」であった京都が、明治維新によって大きく近代化への一歩を進めたが、明治百年の今日、文化観光都市のシンボルとして、この建物が出現した。これによって、再び京都は近代化への自覚をよびさまされることになるだろう。紫色の比叡山の前に、カラフルな万国旗が自色のポールの上に風にはためいているのを見ると、古い京都を忘れてしまいそうである。

 京都盆地は北へ行くにしたがってせり上っていく。そして、その北端にいくつかの小丘が並ぶ。これらの小丘はチャートからできているため、浸食されないままに残ったもので、いわゆる残丘とよばれるものである。京都北郊は最近あわただしく開発され、かつて近郊野菜を生産していた田園地帯の面影は次第にうすれていく。深泥ガ池や宝ガ池あたりには、まだ緑が残されているが、さらに北の岩倉を中心とした小さな盆地は、住宅地としての開発が進んでいる。深泥ガ池、宝ガ池あたりの小丘の緑も、もはや今日では孤立の砦となったようである。

 これらの小丘の間には、太古の時代に、一大沼沢地帯であったことを教えてくれる自然がいくつか残されている。上賀茂神社の東の大田神社には、天然記念物「大田ノ沢カキツバタ群落」があり、東の深泥ガ池には、ミツガシワ、ジュンサイ、ヤチスギラン、カキツバタ等の北方の系統の植物が生存していて、かつて京都の気候が寒冷であったことを示している。深泥ガ池の水生植物群落も天然記念物となっているが、排気ガスや汚水の流入で、かなりいためつけられているのは悲しいことである。この池のジュンサイを汁に入れて食卓にだすことなどは、遠い日の物語のひとつだろう。

 小丘や池の間を散策している時、思わぬところで小さな湿原を見つけ、赤いモウセンゴケとその上を飛ぶ日本最小のハッチョウトンボのかわいい姿を追うことも、まだ可能なのはすばらしいことである。
国立京都国際会館

鞍馬と貴船

 海百合、紡錘虫、珊瑚、腕足貝、巻貝は何億年か石灰岩の中にとじ込められていた。濃緑の樹林の海底で、今静かに、白く岩面から浮上して無限に遠い古生代の物語をはじめる。地質学的な思考の世界が、鞍馬と貴船にはある。

 鞍馬寺の本堂の左奥への道をたどれば、スギ、モミ、アラカシ、ウラジロガシ、サカキ、ツバキの深い樹林にはいる。奥ノ院といわれる不動堂、魔王堂のあたりは暗く、鞍馬とは闇部のことであるということがうなずける。このあたりに露出する石灰岩は、雨水による浸食を受け、牛若丸と烏天狗とがわたりあったときの木太刀のあとだという伝説を信じさせる形のものもある。

 樹林の中には、朽本が倒れて菌類が生育し、キノコムシをはじめとした甲虫類が金属光沢を小さく輝かす。魑魅魍魎のさまよう世界も、自然科学者にとっては研究資料の宝庫である。

 鞍馬寺鞍馬弘教の総本山で、都の北方守護の多聞天(昆沙門天)を祭っている。今日では、商売繁昌を願う人や花街の人のお参りがたえない。

 門前町は、名物木ノ芽煮のにおいがいっぱいである。木ノ芽煮とは、山椒の葉と幹の靭皮(辛皮)と昆布との佃煮で、古い時代には塩漬に作ったともいわれている。

 火祭の夜は、この門前町を大小の炬火がうめつくしてしまう。この祭は、山門をはいったすぐ上にある由岐神社の祭で、10月22日の夜におこなわれる。志賀直哉の『暗夜行路』の中にも、この祭がでてくる。冷たい秋の空気をふるわして、異様に興奮した人々の顔を火が赤く染める。

 鞍馬寺への九十九折の石段を登れば、春にはシャガの白花が斜面をおおう。たどりついた本堂の小さい境内で、ヤエザグラと赤く咲きこぼれるスオウの花にであうこともある。不動堂への暗い道にも、ヤマアジサイウラジロウツギ、イワカガミの花が、初夏の頃に色彩をにぎやかにする。魔王堂から左へおりる道を進めば、間もなく貴船の谷を見おろす。秋であれば、燃えるような紅葉が谷にそっているのを見るだろう。

 貴船神社は、川上の神を祭っている。ケヤキの大木と朱の鳥居、それに紅葉は、鞍馬山の暗い様相とはまったく違った明るい雰囲気である。

 渓谷の道を奥ノ社へたどれば、巨杉の並ぶ開けたところにでる。少し斜めになった巨大な杉の並びと山腹のところどころにある紅葉、そして青い空に秋をしみじみと味わうことができる、奥ノ社のイタヤカエデの紅葉の下で詩集でも開いたらどうだろうといつも考える。奥ノ社の左奥には、輝緑凝灰石をつみあげて造った舟形石がある。いつの頃か、だれかが航海安全を願って造った御舟だろうが、何億年かの昔に海底火山の噴出によってできた岩石のこの船は、タイムマシンのように月光と共に遠い過去を走っているのだろう。

 貴船渓谷には、ムカシトンボが生棲している。生きている化石としてのムカシトンボ科に属するものは、ヒマラヤムカシトンボと日本のムカシトンボの2種だけである。5~6月に渓流にそって飛んでいる。鞍馬と貴船は、何かめっぽうに古いものの存在を感じさせる。人類がまったく関知しない古い過去と無限の時の流れの中で、自然との対話ができるところである。
鞍馬寺
貴船神社

比叡山今昔

 濃緑の針葉樹の道をたどる時、眼前に突如として、紅・黄・褐色の明るい光に満ちた空間が現われる。小さな正方形の入母屋造り檜皮葺の建物の周囲だけが明るく、音もなく、静かに紅葉が降っていた。そのまま足を進めたとすれば、その紅葉と枯葉の光波の世界は瞬時に消失してしまうように思った。

 元亀2年(1571)、信長は比叡山のすべての堂舎を焼払った。その兵火の中で焼失をまぬがれた唯一の建物が、西塔の別所谷にあるかわいい瑠璃堂であると伝えられている。たずねる人も少なく、忘れられた小堂である。さらに足をのばせば、慈恵大師良源の開いた黒谷青竜寺にでる。このあたりはもとより、比叡山は野鳥の繁殖地として特別天然記念物の指定を受けているだけあって、野鳥は多い。初夏の頃には、オオルリのソプラノ、さわがしいキツツキ、そしてサンコウチョウキビタキアオゲラサンショウクイなどの声を聞くことができる。

 ケーブルカー、ロープウェイ、ドライブウェイなどによって、比叡山の観光開発は進められてはいるが、それらは単に線で開発されているにすぎない。堂塔は美しく朱の色に染められ、道路はコンクリートでかためられてはいるが、まだまだ三塔(東塔、西塔、横川)十六渓、二別所(黒谷、安楽谷)の各所に、昔日の道場、霊場としての比叡山が存在している。

 巨杉の下に、名も忘れられた渓間に苔におおわれた石垣、草深い寺跡がねむり続け、いわゆる比叡山三千坊の幻影が、いたるところにひそんでいるのである。

 広い本通りから、ふと何気なくはずれて、杉の木立の中に立入ると、枯葉とシダ植物の間に「渓の墓地」を見つけることがある。兵火に焼ける堂塔の炎、燃える巨樹の梢、殺りくのどよめき…といったものが、ひとつひとつの石塔に記録されているに違いない。比叡山三千坊の背景の時の流れを聞く時、黄葉が静かに降りかかる。

 東塔の天梯権現祠、狩籠ガ丘、飯室の慈忍和尚廟、元三大師横川御廟の4個所を「魔所」と呼んでいる。ここには天狗が住むといわれ、うっそうと暗いところである。

 比叡山延暦7年(788)、最澄によって比叡山寺が建てられて以来、仏教、学問の道場として今日にいたっている。最澄、円仁、円珍等が次々と中国より文明をとり入れたことは、 日本文化の発展に大きい役割をはたしてきた。

 ここでは、観光旅行者の眼にはとまらない、きびしい修行が日夜おこなわれていることを知らねばならないだろう。密教の一儀軌に「若し閑静処なる名山に於て意楽に随って回峰せば最も殊勝なり」と示されているが、今日も回峰行者は一千日を一期とした行をおこなっている。頭上に蓮の葉をまいた形の檜笠をいただき、自の麻衣の回峰行者に山道でであうことはまれなことである。というのも、この行は夜半よりはじめられ、昔の規定どおりにおこなわれているからである。あまりにも享楽化した社会にあっては、ともすればきびしい生き方を忘れてしまいそうである。宗教とは何だろうかと考えずにはいられないムードが比叡山にはあるようだ。
比叡山延暦寺

琵琶湖疏水~「哲学の道」とその周辺

「桜の花びらが流れつくすと、季節は初夏にうつってゆくのだった。若葉が眼のさめる様な新緑を、こんどは疏水にかげをおとした。秋にはそれは燃える様な紅葉にかわった」これは田宮虎彦の『琵琶湖疏水』の一節で、美しい自然と共存できない悲しい青春の物語である。田宮虎彦がこの疏水べりを歩いた日は、静かな流れにうつる青空のかなたに、暗雲を感知しなければならない時代だった。この琵琶湖疏水には、京都の復活の日の物語と多くの人たちの青春の物語が流れている。

 明治18年(1885)、北垣国道知事は、田辺朔郎技師とともに、当時不可能といわれた琵琶湖疏水の工事をはじめ、明治23年(1890)に完成した。日本の近代産業のエネルギーを、古都から立派に発生させたのである。この古都復活のエネルギーとなった流れに対して、人々は心からなじみ、美しく育ててきた。人工の水路であることを考えさせないまでに、昔からの東山山麓の自然に融和している。画家、橋本関雪の大人は、自費で桜の苗木を疏水べりに植えた。「関雪桜」として、多くの人々にすばらしい自然をあたえてきた。

 流れのある道は、山科あたりからはじまり、南禅寺の水道から若王子神社、そして東山の麓を銀閣寺道へと続く。

 いつの頃からか、東山山麓の疏水べりの道を「哲学の道」と呼ぶようになった。西田幾多郎田辺元などがこの道を好んで散策したことも、その由来で、静かな流れと自然が思索の道に通ずるものを持っているためだろう。

 桜の花びらを流す水の流れは、とどまることを知らない。秋の日も同様、枯葉は静かに刻々と移動を続けて行く。思索する者にあたえられた宿命のように、生命の終りの日まで、立ち上り休息することを許さないきびしさがある。そして、風音だけの世界が流れとともにはてしなく続く。

 ある時、流れにそって、はじめは休息のつもりで歩きはじめても、いつまにか何かを考える散策となっている。過去の人々の思想の断片が、疏水べりにいっぱい散らばっているようだ。過去の人々といえば、銀閣寺の南の茅ぶきの山門のある法然院には、河上肇、河田嗣郎、内藤湖南九鬼周造谷崎潤一郎などが永遠のねむりについている。ここの本堂の輝く床の上には四季に応じた散華があって、俗世界と来世の無限の空間を怪しく感じさせる。静かに歩くことにしよう、哲人たちのねむりをさまたげないように…。

 疏水にそって、ふたつのローカル・ミュゼアムともいうべきものがある。ひとつは、録閣寺のすぐ西にある橋本関雪の「白沙村荘」で、ここには関雪の古美術コレクションの大半がある。中国土偶ギリシア・ペルシアの陶器、それに4000坪の庭では、平安時代から室町時代にかけての多くの石造美術品などを見せてもらえる。

 他のひとつは、イングラインから西への流れのそばにある、中国風の「藤井有鄰館」で、京都らしからぬ建物であるために、とまどいを感じる。ここには藤井善助が収集した中国美術品を中心としたコレクションがある。殷・周・戦国・秦・漢の銅器、北魏北斉・唐の石仏など珍しいものが多い。このあたりは第二疏水べりとは違って、流れも豊かで明るいところである。

知恩院から青蓮院

 華頂山のふもとの知恩院から、北へ青蓮院をへて粟田口、さらに疏水ぞいの道を南禅寺に至る。石垣と楠の大木の道が山麓にそっているあたり、季節、時間をちがえても、それぞれに豊かな古都の詩情が流れている。

 桜の花の4月、知恩院では開祖、法然上人の忌日法会がおこなわれ、底冷えから開放された京の人々は、この御忌詣と共に花見にでかける。人々は清水寺から北へ、平安神官から南へと思い思いに花をたずねて歩いていく。

知恩院の三門は、大きな堂々としたものだけれども、 もはや三十三間堂の南大門や高台寺の薬医門のような生気はもっていない。手がたい職人の仕事である」(竹山道雄『京都の一級品』より)。たしかに黒々とした巨大な山門であるが、門の下に立っても、東福寺の山門に感じたような力強い異様なすごみがない。むしろ、この間は少しはなれて、東山の緑を背景として見たほうが美しいようである。大晦日の夜、白朮詣の人々がまわす火縄の光跡が、黒々とした三門の中の石段を上っていくのは幻想的な光景で、その時に聞いた知恩院の鐘の音は印象的だった。知恩院は、軍事的な目的で造られた寺院だといわれているが、三門の北の黒門からはいると、どこかの城にやってきたような感じがする。「昔の人は元気だったんだなあ」といいながら、三門の長い急な石段をのぼる親子があった。のぼりきった広場の建物は、いずれも力強い立派なもので、真近な華頂山の密生した緑とともに、やわらいだ明るさのある世界をつくっている。本堂の東奥には、円光大師廟への道が白壁の間をのぼっているが、本堂周辺とは違った聖域への入口であることを知らされるところである。のぼって左に勢至堂があるが、古さびた素朴なところで、いつまでもたたずんでいたいところである。

 知恩院の北隣りの青蓮院への道は、石垣とその上の楠の巨本の道である。たえまなく通る車をさけて歩かねばならないところではあるが、楠は古都の詩情をなんとか保とうとしているかのようである。排気ガスのために、これらの楠も案外早く消失してしまうのではないだろうか。

 石垣の上の苔の上を、楠の根がはいまわっているようで、不気味である。この楠を見るだけでも、ここをおとずれる価値は十分あるといつも思う。京都にある5つの門跡寺院のひとつだけあって、どことなく優雅なたたずまいである。黒い柱の門、白い壁、苔と石垣、それに古い楠がみごとに調和をみせている。古い楠は、青蓮院官が安政の大獄で退隠永蟄居を命ぜられた時代のことも、それ以前のことも知っているにちがいない。

 青蓮院の前から比叡山大文字山がよく見えるが、比叡山はドライブウェイにけずられた跡がまだ残されて、いたいたしい。

 寛永年間にはじまったという粟田焼の跡ももう消失したのか、過去の美を知るすべもない。粟田神社仏光寺総本廟、そして近代的な姿となった都ホテルヘと道はのぼる。「君さらば粟田の春のふた夜妻 またの世まではわすれ居給へ」と歌った与謝野晶子の時代を物語る何ものも残ってはいない。ツツジで有名な浄水場の「御目ざめの鐘は知恩院聖護院 いでて見たまへ紫の水」の歌碑があるのみだ。
知恩院

南禅寺疏水と平安神宮

 静かな都に御一新の風が吹きぬけて「千年の王城の地」としてのエリート意識は、音をたてて崩れ落ちた。明治元年7月、江戸を東京と改称、明治2年3月、天皇再度東京へ、そのまま帰らず。遷都と知った京都の人々は大声をだして泣いたという。一時は人口も急に減って火が消えたようになり、名実共に千年の都が消失しようとしていた。予想される京都の運命は、古寺とくずれた土塀、ひそやかな生活だけの第二の奈良同様なものだった。だが、誰かの表現によれば「不死鳥のように」立ち上ったのである。この生命力は、京都人の千年の都への愛情と、東京に対しての反骨の精神に由来するものだといわれる。古い京都の人は、京都は現在なお法制上は日本の首都であると信じているという。産業の振興と教育の普及というふたつの旗をかかげて、近代化への道をあゆみだした。これには、初代知事の長谷信篤、大参事の槙村正直、明石博高等のすばらしい指導者を得たことと、新しいものに対する京都人の寛容さとが協力して文明開化を進めたと考えられている。今日の京都の姿を見て、これが百年前には戦火のちまたで、大半が焼野原となった街とは、とても考えられない。それ程に静かで古さびたたたずまいがある。子供の頃、祖母から聞いた「どんどん焼け」のなまなましい話も、そう恐ろしいものとは感じなかったように思う。疏水もずっと昔からの流れのようで、とても明治の産物とは考えられないし、どの古寺も、千年の昔からあるのだといった顔をしている。京都の風土は、何もかもをすぐに古く見せてしまうようである。

 京都の近代化を進めた人々は、すでに百年後の姿を予知していたのか、産業の振興とともに、文化観光都市としての計画もあわせて発展させていた。明治4年の第1回博覧会あたりにその出発点があって、積極的に外貨獲得をやり、観光行事としての「都おどり」「鴨川おどり」などを実行したのだった。

 教育の普及としては、明治2年(1869)の小学校開設、5年の図書館(集書院)の開設、8年の新島襄による同志社英学校、13年の画学校の創立、22年の第三高等学校の京都での開校等、めざましいものがあった。

 産業の振興は、当時不可能であるといわれた琵琶湖疏水工事の成功によりはじめられたといえる。そして、世界第2番目の水力発電が蹴上ではじめられた。明治28年(1895)には、日本最初の路面電車が伏見から塩小路までの間を走りはじめた。これらとは別に、明治4年(1871)の勧業場開設、 5年の梅津の製紙工場、6年の織物工場、8年の染殿などがある。これらの近代化が成功したのは、積極的に外国からの知識を導入したためだといえる。木屋町には舎密局があり、西陣からは職工がフランスヘ行って技術と機械を輸入した。

 明治28年は、恒武天皇平安京遷都以来1100年目であった。それを記念して岡崎に平安神官がつくられ、桓武天皇が祭られ、10月22日には第1回の時代祭がおこなわれた。チンチン電車インクラインも過去のものとなってしまったが、新しがりやの京都は、明治百年の今日、再び次の脱皮をはじめようとしている。

平安神宮

清水寺から高台寺・円山公園

 東山山麓には、古都の感情を知ることのできる要素が各所にあって、どこをどう歩いても、何かにぶつかり、いずれの時代かにひきもどされることになるだろう。だが、東山の道は、歴史のある散歩道であると同時に、墓所への道であるため、深い永遠のねむりをさまたげぬよう静かに歩きたい。
 五条坂の正面は西大谷本廟で、背後に、いわゆる鳥辺野の墓地がひろがっているが、案外明るいため、死の世界といった暗さはない。西行法師が歌った「なき跡を誰としらねど鳥辺山 をのをのすごき塚の夕ぐれ」といった時代とは、かなり違った現代の鳥辺野の風景となっている。
 清水坂をのぼると、にぎやかな門前町の東のはずれに、石段の上に楼門と西門と二重塔が音羽山の緑を背にしてあらわれる。清水寺は、その本堂の舞台があまりにも有名なため、境内にあるいろいろな建物は影がうすいようである。たしかに、高さ12メートルの懸崖造りの本堂は巨大なもので、檜皮葺の屋根は、優雅な曲線を中空にえがいている。この美しさを見るには、奥の院の舞台から、夕焼けの中に沈み行く太陽の光で見るのが一番いいと思う。紅色の雲と西山の黒い山脈を背景に、本堂の力強い柱列と擬宝珠のシルエットが、遠い日の夕暮れにみちびいてくれる。
 思いきったことをするとき「清水の舞台から飛びおりる」というが、本当に飛びおりた人があるらしい。舞台の下には音羽ノ滝があり、南への道をとれば泰産寺子安塔をへて清閑寺に出る。塔から清閑寺への道は、「歌の中山」といっている美しい山路である。
 清水坂の中程の三叉路を北へくだる石段の坂が三年坂で、大同3年(808)に開かれたためにつけられた名で、別に、かつて清水寺の前にあった子安塔へ通じる坂道として産寧坂の名もあった。三年坂から北ヘ進めば二年坂であるが、このあたりは自動車が通ることもなく、骨董品店、高台寺焼やいろいろなみやげ物店をのぞきながら静かに歩けるところである。二年坂から左ヘとれば、八坂塔へでることができる。二年坂を北へくだって、東西に走る京都神社、高台寺の参道にでる。ここには切妻造りの薬医門があって、桃山時代の力強い姿を見せる。高台寺あたりの春は、めまぐるしい花の海となり、いたるところに桜の花が咲きこぼれている。高台寺には開山堂、霊屋、臥竜楼、時雨亭、遺芳庵、鬼瓦席などすぐれた建物が多い。高台寺の西門をくだるあたりの雰囲気は、いかにも京都らしい静かなところであると思う。この道をくだったところが円徳院で、その前の道が北へいわゆる真葛原をへて円山へ通じている。甘酒の旗が上塀からのぞき、椿、山茶花、竹林が土塀ごしに色彩をそえるすばらしい道である。昔、このあたりに高台寺の北門があったため、高台寺北門道といっている。北へ進めば円山公園にでて、東の双林寺への道のそばに芭蕉堂、西行庵がある。円山公園の音楽堂の東には、東大谷本廟があり、静かな緑の道がはてしなく続くところである。ある人は、「円山公園を日本でただひとつの公園らしいもの」としているが、たしかに自然そのままの美しさと巨大な知恩院の屋根も調和を見せている。しだれ桜は、この公園のシンボルであり、さらに京都のシンポルでもある。

東山三十六峰

「美しい水があり山があった。樹木の厚く繁った東山に、寺の大屋根や塔が柔かく抱かれているのを見るほかに、…」と、大仏次郎の『帰郷』の主人公、恭吾は鴨川べりの宿からの風景に京都らしさを感じる。牛車や自転車のかわりに自動車が多くなったが、東山の緑は、昔も今もまったく変わらない。「ふとんきて寝たる姿や東山」の言葉どおり、三条から五条あたりまでの間から見た東山の山脈は、なだらかでごく自然に続いている。

 誰がどのように数えたのか、東山三十六峰というが、北は比叡山から大文字山、将軍塚、清水山、阿弥陀ガ峰、六条山、花山、稲荷山、大岩山、桃山と起伏が続いている。京の町は碁盤目であるから、東西の通りからは、この東山のどこかの部分を東に見ることができる。時間により、日により、季節によってその色彩は異なり、その感情も常に一定のものではない。京都の町に生活する者は、無意識のうちに、その東の山を感情のどこかに受け入れているに違いないと思う。雨あとの緑が水々しい東山を意外に近くに感じて驚くこともあり、また、霧雨の中に消えようとする東山の淡彩に冷たさと淋しさを感ずることもある。冬がもう終りに近い日、一日降りつづいた雪が止んで青空が現われ、その下に白くなった東山が見えたときは、今までになく感動した。そんな時の東山は近くに見え、一本一本の樹木もあざやかに立体化している。次の日にもまだ雪は各所に残って、大文字山の火床のあるところだけが白く、あぎやかに雪の大文字をえがいていた。また、清水寺の本堂、三重塔の屋根にも雪が残り、黒味がかったような山肌の中に、幻想の寺を浮上させるのだった。東山は、一見、南北に続く単純な山脈であるが、雨の走る日、霧のわく日など、気象条件が変化する時には、谷のひとつひとつ、峰のひとつひとつが明らかとなって、意外に複雑な山肌であることがわかる。

 東山の濃緑の山肌に、八坂塔(法観寺)と三重塔(清水寺)がごく自然に並んでいる風景は、古都を代表するものである。自然と人工物のパランスがうまくとれているのが京都のすぐれた特長であることを、 しみじみと知らされる風景である。いずれの季節でも、淡色であって、強くアクセントがつけられることは少ないようで、例えば、春は淡紅の花の群が山麓にひろがり、夏はじっとりとした緑が山をおおい、秋には淡色の紅葉が山肌を彩る。

 鴨川の流れ、柳の木の並び、黒っぽい屋根の並び、そしで東山の緑のつらなり、すべてが集まってひとつの風景を構成しているため、そのうちのひとつでも欠けた場合には混乱がおきそうに思われる。

 五条通りからは、ちょうど東正面に清水寺が見え、八坂通りからは、八坂塔がきゅうくつそうに家屋の間から姿を見せる。四条通りでは、正面に朱色の八坂神社の間があり、 うしろに東山の緑が近くせまっている。粟田口からは、疏水の流れと緑があり、今出川通りからは、大文字山が正面に見える。それぞれの町からは、それぞれの東山が日常の生活と共にあるようである。

「美しい水があり山があった」この言葉がいつの時代にもあてはまる美しい自然を持つ京都は、永遠の都であることを再認識する。心なき人々は、その山肌に何かをつくろうとするが、誰もそんなものを必要とはしない。

三十三間堂と方広寺あたり~仏の世界と秀吉の栄光

 七条通りは、鴨川にかかる七条大橋から東へ次第に勾配が大きくなって、東大路で終るが、その東山七条あたりは、古いものと近代的なものとが共存している特異な場所である。古さびた土塀や石垣の中に、近代的な病院や学校が平然と存在しているのを発見すると、京都の将来がどうなっていくのかを考えさせられる。七条通りの東のはずれの智積院、博物館のとなりの豊国神社、方広寺、さらに東山阿弥陀ガ峰の豊臣秀吉の墓等、秀吉そのものであるといわれた桃山時代への入口がいくつもある。国宝となっている長谷川等伯の「楓図」をはじめとした障壁画の数々が、智積院には残されているが、京都に起こった大火、戦火のあいだをくぐりぬけて残された過去の文化の一部分として、現代の私たちに強くせまってくるものがある。戦火といえば、応仁の乱にも焼けなかったのが、八坂塔と三十三間堂である。

 三十三間堂は、柱と柱の間が33あって、全長118メートルの長大な堂で、長さでは日本一だろう。だが、この巨大さをとらえることは困難で、写真でも寸づまりな感じになってしまう。もっと広い場所にあれば、この堂の持つ長大さを十分にとらえることができるだろうと、いつも思う。むしろ堂内にはいったほうが、その長大さをよく知ることができるようだ。1001体の千手観世音について、ある人は「仏像の大合唱団を見るような偉観」と表現し、ある人は「幽暗の中に金色の雲のようなものが揺曳している」といった。観世音は、33に変身して衆生を救済されるため、この堂内には3万3千33体の観世音がおいでになることになるという。なき人の面影を千体の仏のうちに見つけることができると信じられているためか、ひとつひとつの顔をたんねんに見ていく人々も多いようである。平常は神仏を信じなくても、ここでは、仏の無限の慈悲を静かに考えさせられる。

 七条通りをこえた北には博物館がある。三十三間堂とは対象的な赤れんが、スレートぶきのルネサンス建築である。明治28年に建てられているから、もう古い建物の仲間入りをしている。ある人はこの国立博物館の屋根の天然スレートの並びを「怪魚の背のようだ」と言った。この博物館の西は、大和大路通りであるが、そこには秀吉が築いた方広寺の巨大な石組がある。「京の京の大仏さんは、天火で焼けて、三十三間堂の焼けのこる」と童歌にあるように、秀吉の栄光はこの石組だけが物語ることとなった。現在、方広寺にある木像大仏は、天保14年(1843)に再建されたもので、巨大な造形感覚をもっていた秀吉のイメージとはまったく異質なものになっている。古代の巨石文化を考えさせる石組と豊国神社の唐門には、共通した要素があるといわれるが、たしかに、秀吉がつくった文化には底知れぬものがある、と認めねばならないだろう。方広寺には豊臣氏を滅亡させたという有名な「国家安康、君臣豊楽」の銘のある梵鐘がある。つい最近、重要文化財に指定された。このあたりは何か淋しいところで、訪れる人もそう多くない。

 方広寺の西には、大和大路をへだてて耳塚がある。これも秀吉の栄光を物語るものではあるが、その存在も、今日では忘れられようとしている。沈みゆくオレンジ色の太陽は、耳塚を小さなシルエットとして見せてくれる。

東福寺と伏見稲荷~東山南麓の魅力

 東福寺へ通ずる石垣と土塀のある道は、静かで古都探策の目的をもつ旅人を十分満足させてくれる。ともすれば、京都は南へ行くにしたがって、古都という言葉を失いがちであるが、東福寺あたりが古都の南限かもしれない。

 檜皮葺の月下門の前から、洗玉澗という渓谷にかかる屋根のついた臥雲橋までくると、別の世界の入口に立っていることに気づくだろう。すっかり庭園となっている渓谷には、カエデがいっぱいあって、少し上部に通天橋がかかっている。昔から通天の紅葉として有名であったらしく、特に開山忌の頃がいいといわれている。開山の聖一国師は「楓林の紅葉久しく保たず」と栄華におぼれるのを戒めているが、何か皮肉なものを感じる。小さい流れに紅色の葉が流れていく秋の終りの日は、淋しさよりも美しさが先行している。

 東福寺は、京都の寺にしては珍しく、明るい上に強いアクセントが各所に見られる。室町初期の再建になる三門も荒れはててはいるが、素朴で力強い表現でせまってくる。柱の1本1本も、長い年月の風化作用ですっかり傷めつけられている。もう、根本的に改修しなければならない時がきているようだ。本当の自然保護とは、やたらに人間が保護の手を加えるものではなく、自然のままにしておくことだ、と誰かがいったのを思いだす。ある禅の老師は、禅宗の将来について「いつかは亡びるでしょう、それが釈尊の教えですから」と答えたというが、今の我々の知恵では、やはりこの国宝は修理しなければならないだろう。三門の2階からは展望が良く、京都の南部が望まれ、近代的なものが四周から次第にせまりつつあるのがわかる。

 東福寺の南には、稲荷山があって、そのふもとには稲荷神社がある。もと農耕神として発生したものであるが、江戸時代にはいろいろの稲荷ができ、開運出世、商売繁盛の神となった。「伏見稲荷はいつの時代にも現世的だった。だからさかんなのだ」と、丹羽文雄も書いている。稲荷といえば、狐と朱の色の鳥居で有名である。朱の色の鳥居のトンネルをくぐりながら歩いていると、俗界とはまったく隔絶されてしまったように感ずるから不思議である。全山の鳥居の総数は1万とも2万ともいわれているが、ともかく無限に存在しているようである。ひとつ1000円程度のミニ鳥居から数百万円のデラックスなものまで、何かの願望の表現として林立しているのだから、神様も大変だと思う。

 東山は、一応桃山のあたりで終り、別の醍醐山地が南の宇治川までのびている。秀吉がここに伏見城を築いたのは、宇治川をひかえた形勝の地であり、西国出入ののどくびであったことが理由だとされている。

 伏見は伏水の文字のとおり、良質の地下水にめぐまれたため、灘に次ぐ銘酒をつくってきた。土蔵造りの白壁の酒蔵、杉桶、本樽、そして杜氏の歌も次第に姿を消し、近代的な醸造技術で進められている。いくらか残っている白壁の酒蔵を発見すると、時間旅行者になったような気がしてくる。かつての港町としての伏見の姿も消失してしまった。「都ヘノボル高瀬船、難波ヘ下ル悼ノ歌」は、今や遠い昔の物語である。再現した伏見城には、何の感動も得られないといえば、うそになるだろうか。
東福寺

平等院と万福寺~極楽浄土への願い

 流れ出る川がひとつしかない琵琶湖の水は、石山のあたりから山間を縫い、宇治で初めて平地にほとばしり出る。「ころは一月廿日あまりのころなれば、比良のたかね、志賀の山、むかしながらの雪も消え、谷々の氷うちとけて水は折ふしまさりたり。白浪おびただしうみなぎりおち、瀬まくら大きに滝鳴って、さかまく水もはやかりけり」。佐々木高綱と梶原景季との宇治川先陣争いを描く『平家物語』の一節が、その流れの早さを伝えている。人々はこの急流を渡りかね、いつも川のほとりに群れをなしていた。強いて渡ろうとして、命を失う人も多かった。それを見かねて、奈良元興寺の僧、道登が橋をかけることを発願した。大化2年(646)のことである。

 「この橋を構立して人富を済渡す。即ち微善によりて、ここに大願を発し因をこの橋に結びて果を彼岸になさん」と、宇治橋のたもとにある橋寺に残る日本最古の石碑といわれる「宇治橋断碑」は、道登の願いを伝えている。

 橋は「この岸」と「かの岸」とを結ぶものである。 彼岸とは、文字通り向う岸であると同時に、あの世(極楽浄土)を意味する。道登はこの橋によって、「彼岸」に渡りたいと願ったのだ。宇治川の「彼岸」に平等院があることも、ひとつの彼岸思想の表われであろう。

 「極楽うたがわしくば、宇治の御寺をうやまえ」と当時の人は称えたという。清少納言が「遠くて近きもの、極楽、舟の道、人の仲」(『枕草子』より)といったように、平安中期の人々にとって、極楽はけっして遠いところではなかった。栄華をきわめた藤原貴族の力をもってすれば:この世に極楽をひきよせることも可能であると考えた。道長らは争って寺をつくった。「御前の庭をただかの極楽浄上の如くにみがき、玉を敷けりと見ゆ… この世のものとゆめに覚えず、ただ浄土と思ひなさ」れたと『栄華物語』は伝みる。

 かれらは、この世が極楽であり、そのまま死後の世界にも続いていると信じていた。平等院道長の子、関白頼通が天喜元年(1053)に建てたもので、極楽浄土をこの世に出現させようとしたものである。鳳凰堂の前の池は、極楽にあるという八功徳水池になぞらえた。いわゆる浄土庭園と呼ばれるものである。蓮の花の咲く池に浮かぶ鳳凰堂、正面の格子戸に円くあけられた窓から金色に輝く阿弥陀如来の尊顔を拝する時、人々は極楽を身近に感じとったことであろう。

 「山門を出れば日本ぞ茶摘みうた」(菊舎)の句で知られる黄檗山万福寺は、宇治市の北のはずれにある。王朝の道風を漂わせる平等院に対して、純中国風のこの寺は好対照を見せる。万福寺は中国から渡来した隠元によって寛文元年(1661)に開創された。隠元以来13世の竺庵に至るまで、代々中国僧が住職をつとめるならわしがあった。建物はじめ、お経のよみ方、日常の作法など、すべて中国風を残している。江戸時代初期、知識人にもてはやされた中国趣味のひとつのあらわれであろう。いんげん豆は隠元が中国からもって来たといわれるが、この寺に伝わる料理は、いわゆる普茶料理と呼ばれ、精進料理の代表的なものになっている。油の使い方など、一種の中華料理と呼んでもよいほどで、古都にあって異国情緒を漂わせている。