京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

平等院と万福寺~極楽浄土への願い

 流れ出る川がひとつしかない琵琶湖の水は、石山のあたりから山間を縫い、宇治で初めて平地にほとばしり出る。「ころは一月廿日あまりのころなれば、比良のたかね、志賀の山、むかしながらの雪も消え、谷々の氷うちとけて水は折ふしまさりたり。白浪おびただしうみなぎりおち、瀬まくら大きに滝鳴って、さかまく水もはやかりけり」。佐々木高綱と梶原景季との宇治川先陣争いを描く『平家物語』の一節が、その流れの早さを伝えている。人々はこの急流を渡りかね、いつも川のほとりに群れをなしていた。強いて渡ろうとして、命を失う人も多かった。それを見かねて、奈良元興寺の僧、道登が橋をかけることを発願した。大化2年(646)のことである。

 「この橋を構立して人富を済渡す。即ち微善によりて、ここに大願を発し因をこの橋に結びて果を彼岸になさん」と、宇治橋のたもとにある橋寺に残る日本最古の石碑といわれる「宇治橋断碑」は、道登の願いを伝えている。

 橋は「この岸」と「かの岸」とを結ぶものである。 彼岸とは、文字通り向う岸であると同時に、あの世(極楽浄土)を意味する。道登はこの橋によって、「彼岸」に渡りたいと願ったのだ。宇治川の「彼岸」に平等院があることも、ひとつの彼岸思想の表われであろう。

 「極楽うたがわしくば、宇治の御寺をうやまえ」と当時の人は称えたという。清少納言が「遠くて近きもの、極楽、舟の道、人の仲」(『枕草子』より)といったように、平安中期の人々にとって、極楽はけっして遠いところではなかった。栄華をきわめた藤原貴族の力をもってすれば:この世に極楽をひきよせることも可能であると考えた。道長らは争って寺をつくった。「御前の庭をただかの極楽浄上の如くにみがき、玉を敷けりと見ゆ… この世のものとゆめに覚えず、ただ浄土と思ひなさ」れたと『栄華物語』は伝みる。

 かれらは、この世が極楽であり、そのまま死後の世界にも続いていると信じていた。平等院道長の子、関白頼通が天喜元年(1053)に建てたもので、極楽浄土をこの世に出現させようとしたものである。鳳凰堂の前の池は、極楽にあるという八功徳水池になぞらえた。いわゆる浄土庭園と呼ばれるものである。蓮の花の咲く池に浮かぶ鳳凰堂、正面の格子戸に円くあけられた窓から金色に輝く阿弥陀如来の尊顔を拝する時、人々は極楽を身近に感じとったことであろう。

 「山門を出れば日本ぞ茶摘みうた」(菊舎)の句で知られる黄檗山万福寺は、宇治市の北のはずれにある。王朝の道風を漂わせる平等院に対して、純中国風のこの寺は好対照を見せる。万福寺は中国から渡来した隠元によって寛文元年(1661)に開創された。隠元以来13世の竺庵に至るまで、代々中国僧が住職をつとめるならわしがあった。建物はじめ、お経のよみ方、日常の作法など、すべて中国風を残している。江戸時代初期、知識人にもてはやされた中国趣味のひとつのあらわれであろう。いんげん豆は隠元が中国からもって来たといわれるが、この寺に伝わる料理は、いわゆる普茶料理と呼ばれ、精進料理の代表的なものになっている。油の使い方など、一種の中華料理と呼んでもよいほどで、古都にあって異国情緒を漂わせている。