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京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

南禅寺疏水と平安神宮

 静かな都に御一新の風が吹きぬけて「千年の王城の地」としてのエリート意識は、音をたてて崩れ落ちた。明治元年7月、江戸を東京と改称、明治2年3月、天皇再度東京へ、そのまま帰らず。遷都と知った京都の人々は大声をだして泣いたという。一時は人口も急に減って火が消えたようになり、名実共に千年の都が消失しようとしていた。予想される京都の運命は、古寺とくずれた土塀、ひそやかな生活だけの第二の奈良同様なものだった。だが、誰かの表現によれば「不死鳥のように」立ち上ったのである。この生命力は、京都人の千年の都への愛情と、東京に対しての反骨の精神に由来するものだといわれる。古い京都の人は、京都は現在なお法制上は日本の首都であると信じているという。産業の振興と教育の普及というふたつの旗をかかげて、近代化への道をあゆみだした。これには、初代知事の長谷信篤、大参事の槙村正直、明石博高等のすばらしい指導者を得たことと、新しいものに対する京都人の寛容さとが協力して文明開化を進めたと考えられている。今日の京都の姿を見て、これが百年前には戦火のちまたで、大半が焼野原となった街とは、とても考えられない。それ程に静かで古さびたたたずまいがある。子供の頃、祖母から聞いた「どんどん焼け」のなまなましい話も、そう恐ろしいものとは感じなかったように思う。疏水もずっと昔からの流れのようで、とても明治の産物とは考えられないし、どの古寺も、千年の昔からあるのだといった顔をしている。京都の風土は、何もかもをすぐに古く見せてしまうようである。

 京都の近代化を進めた人々は、すでに百年後の姿を予知していたのか、産業の振興とともに、文化観光都市としての計画もあわせて発展させていた。明治4年の第1回博覧会あたりにその出発点があって、積極的に外貨獲得をやり、観光行事としての「都おどり」「鴨川おどり」などを実行したのだった。

 教育の普及としては、明治2年(1869)の小学校開設、5年の図書館(集書院)の開設、8年の新島襄による同志社英学校、13年の画学校の創立、22年の第三高等学校の京都での開校等、めざましいものがあった。

 産業の振興は、当時不可能であるといわれた琵琶湖疏水工事の成功によりはじめられたといえる。そして、世界第2番目の水力発電が蹴上ではじめられた。明治28年(1895)には、日本最初の路面電車が伏見から塩小路までの間を走りはじめた。これらとは別に、明治4年(1871)の勧業場開設、 5年の梅津の製紙工場、6年の織物工場、8年の染殿などがある。これらの近代化が成功したのは、積極的に外国からの知識を導入したためだといえる。木屋町には舎密局があり、西陣からは職工がフランスヘ行って技術と機械を輸入した。

 明治28年は、恒武天皇平安京遷都以来1100年目であった。それを記念して岡崎に平安神官がつくられ、桓武天皇が祭られ、10月22日には第1回の時代祭がおこなわれた。チンチン電車インクラインも過去のものとなってしまったが、新しがりやの京都は、明治百年の今日、再び次の脱皮をはじめようとしている。

平安神宮