京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

大原の里

 大原は京都市内を去ること約12キロ、比叡山の北西麓にある小さな盆地である。四方を山に囲まれ、中央を高野川が流れる山里で、大原の名を口にするとき、人はなぜかいちまつの哀愁を感じる。それというのも、古典文学に登場する大原は、いずれも失意の人につながっているからである。『平家物語』の建礼門院はいうまでもなく、『伊勢物語』の惟喬親王、『源氏物語』の浮舟など、実在、仮空の人物をとりまぜて、いずれも都を逃れ、世を捨てて、この大原でひたすらみ仏の救いを念じた人々の住むところであった。
  仏は常にいませどもうつつならぬぞあはれなる
  人の音せぬ暁にほのかに夢に見え給ふ
  暁しづかに寝覚めして思へば涙ぞおさへあへぬ
はかなくこの世を過してはいつかは浄土へ参るべき

 三千院内往生極楽院の弥陀三尊像(勢至菩薩は、久安4年=1148の銘を持つ)を拝するとき、いつもこのふたつの今様歌が私の脳裏にうかぶ。きちんと膝を折って、往生者を乗せる蓮台をさし出す観音菩薩の姿、人々の唯一の願いは、その上に乗せられて極楽に往生することであった。この堂を造った藤原実衡の妻、真如房尼の願いもそうであった。

 平安時代も半ばを過ぎると、世の中は何となく不安になって、全盛を誇った藤原氏も衰えを見せはじめ、釈迦が亡くなって後1500年たつと、末法乱世の世が訪れるという無気味な予言が現実化しようとする気配すら見えてくる。出家して山にこもり、学問・修行するだけの決断もできない。比叡山は女人禁制の寺である。そうした心弱い人々や女性たちの心の支えになったのは「信心あさくとも本願ふかきゆえに頼めば必ず往生す。念仏ものうけれども唱ふればさだめて来迎にあづかる功徳大なり」と説く恵心僧都(942-1017)の教えであった。この恵心の流れを汲む人が良忍(1072~1136)である。

 良忍は恵心にゆかりの深い比叡山横川で修行していたが、のちに山を下って、横川の西麓の大原に来迎院を建て、融通念仏宗と呼ばれる念仏の教えを開いた。良忍は一方、声明梵唄にもすぐれ、ために学ぶ者が多く、大原は仏教音楽の根本道場ともなった。大原を魚山と呼ぶのは、中国の声明音楽の発祥地、魚山になぞらえた呼び名である。三千院をはさんで流れるふたつの川、呂川・律川は、宮商律呂という音階名からとったものである。

 大原は念仏の里であると同時に、大原女の里でもある。大原女姿は建礼門院の姿を真似たという。後ろで合わせるべき「脚絆」を前で合わせているのは、建礼門院が誤ってそうされたのを、そのまま受けついだのだなどと伝えられる。「黒木(たきぎ)買わんせ、黒木召せ」と京の町を売り歩いた。貧しい山村では、黒木を行商する以外に収入がなかったのであろう。朝早く起きて少ない田畑を耕した後、黒木を頭にのせて京まで出かける。日がくれてから大原に帰り着き、それから明日はくわらじをつくるのが日課であったという。現在では、薪炭の需要はなくなった。その代りに、柴漬、餅などを行商する姿は今も見られる。「小原女」と書いた白衿をつけているのは八瀬の「大原女」で、その行商範囲は大阪にまで広がっている。