京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

高山寺

 京の三尾(さんび)という。秋の紅葉の名所である。高尾山神護寺、槙尾山西明寺、栂尾山高山寺である。しかもこの三尾が、一連の高雄にあることから考えても、この辺の紅葉は天下の絶勝であったことは言うまでもあるまい。
 紅葉黄葉の色を鮮かにしてくれるのは、その裾を流れる清滝川あればこそであろう。
 小野郷の桟敷岳を水源として繁茂せる杉林の雨水を悉く蒐め、山間を迂曲すること五里にして終に嵐峡に達する。京洛で一番詩趣画興に富める渓流である。
 その中間に三尾があって河の水を紅にも染めれば黄色にも彩る。新緑のさわやかな時には、水底河床までが緑青碧玉に化す。
 渓谷の水に対する信仰は龍神信仰に連なる。青龍権現は神護寺鎮守神であった。清滝川は青龍権現の化身かも知れない。
 高山寺の歴史は古い。

 本寺の創立は光仁天皇宝亀5年(774)勅願によって華厳宗の寺院として開基された。神願寺都賀尾坊と称したが、後に嵯峨天皇弘仁5五年(814)に栂尾十無尽院と改称。鎌倉時代になって文覚上人の弟子明恵上人(後に高弁と改名、1173-1233)の時、建永元年(1206)11月8日後鳥羽上皇から院庁の別当民部卿藤原長房の筆になる「日出先照高山之寺」の勅額を賜うたので、高山寺の寺号となり、東大寺を本宗とする華厳の道場となる。戒密禅を兼修する浄刹となった。蓋し、この頃に法然上人や親鸞上人によって平安時代の形式佛教は覚醒され、栄西禅師によって洛東に禅苑が設けられ、佛教的革新の気風が大いに起り、やがて白鳳佛教に復旧を見んと精進努力しておる時代であった。高山寺の戒密禅は天台真言両教を刺戟すること極めて強く、洛の内外に亘る新佛教の波涛に強いものがあった。寛喜2年(1230)太政官符をもって高山寺の四至は勅定された。
 そのときの住持、明恵上人は記憶さるべき名僧で、戒律護持の清比丘であった。

 明恵上人は紀伊国有田郡石垣庄の住人平重国の家に生れた。母は紀州の豪族湯浅権守藤原宗重の四女である。8歳のとき母に死別し、父は高倉天皇武者所であったが、源頼朝との戦で戦歿したので、9歳のとき、高尾山神護寺の文覚上人及び叔父の上覚上人を頼みて入寺、釈迦如来を追慕してやまず、東大寺建仁寺にも学びて華厳、真言、律、禅を究め、各地に草庵を結び、専ら修養練行につとめた。空々大空、事々無碍法界を説いた釈尊の声を、身に体した。23歳から34歳の頃までは有田川の辺で革新的な宗理を工夫したらしい。その遺蹟8ケ所は、いま有田川に沿うてある。その代表的な施無畏寺には、明恵上人の自筆書状も残っておる。
 後に文覚上人に招かれて高山寺に入った。専ら修禅持戒に努め、建保3年(1215)山中に練若台を造った。43歳の時であったが、山中なお喧騒であるので、それを避け、栂尾の西峰に、三間一面の小宇を構え、専ら修養の道場とした。常に三時三宝礼釈曼一荼羅をかけて礼賛した。
 建保3年11月25日夜寅刻、天気冷たく冴えて松籟頻りに訪れる中に、閑かに経文を開いて義理を吟味しておる僧高弁(明恵上人の法名)の姿は、佛の外の何物でもなかった。
 ついで山中に羅婆坊、華宮殿、遺跡窟の三草庵を作り、石水院、樗伽山、三加禅を初めとして、縄松樹、定心石等、あらゆる岩石老松を以て座禅の場とした。その遺蹟は、いまも指摘されておる。
 最後に禅定院を建てた。安貞2年(1228)のことであったが、附近に法鼓台の経蔵、持佛堂、禅河院、十二重塔も備え、貞永元年(1232)正月60歳で病死するまでの、草居であった。遺骸は遺弟らによって直ぐその後丘に葬られた。いまの御廟所である。また禅定院は上人の住居として御影堂として、在りし日の上人を偲ぶよすがである。
 明恵上人ほど遺弟から慕われた人はない。それらの草庵あとには弟子喜海等の手で木製卒塔婆が建てられ、師匠の行蹟を記念しようとした。しかし湿気の多い山中のこととて木標は腐朽した。元亨2年(1322)比丘尼明雲等によって、石造の卒塔婆に替えられた。現存する。
 遺跡窟にも12月9日造立で、正面には「篠凡字)遺跡窟元仁隠居之比、時々、詣此窟、坐禅入観、擬西天双輪之石、而立此石」という銘文のものがある。
 紀州における明恵上人の修練や勉学の旧蹟にも嘉禎2年(1236)弟子喜海が本造卒塔婆を建て、記念の標職としたが、朽ちたので康永年間に石造卒塔婆に替えておるが、それも同工異曲の追慕の至情である。明恵上人の人徳は比類がない。

 高山寺は高雄街道―京都から高雄を通り中川郷から周山に出る街道の、左手丘上にある。足を一歩、山内に入れると空を覆わんばかりの楓樹や老杉の境内に、常に清涼の山気が吹く。もと僧坊があったか堂舎があったか、石垣で囲まれた旧址の間を通って、石水院の白壁土塀に迎えられる。低いながらも城郭を思わしめる頑丈さである。次の文書は高山寺文書の一通であるが、さきに神護寺のところで掲げたと同じ時の足利直義の御教書であり、一山衆徒が城郭を構えて新田義貞に与力したことを戒めたもので、中世においては、相当の武力をも貯えておったことが知られよう。
 「楠木判官正成去月二十五日於湊河、令討取畢、新田義貞已下凶徒等、逃籠山門之間、可加誅伐之由、所被成院宣也、依之、差遣討手之処、高尾寺衆徒等令与力義貞、構城瑯云々、早可注申実否、若令同意高尾、不注進子細者、可被処重科之状、如件 建武三年六月十日(花押) 栂尾寺々僧中」
 山岳を城郭として利用するとすれば、このような状況であったろう。戦史の上からも研究してほしい故址である。

 石水院も鎌倉時代初期の高級住宅として、実に見るべき清楚な遺構である。
 もと明恵上人が上賀茂に建てた別所の遺構であるとも言われるし、上賀茂にあった後鳥羽院の御学問所の遺構を下賜されて貞応3年(1224)ここに移した時多少改造したものではないかともいえる。桁行五間、梁間右側三間、正面に一間の向拝を附す。単層入母屋造柿葺。ここの一構に見る透彫の格子や蟇股は、実に精巧を極めており、透彫の極致とも見られよう。
 東の縁側から脚下を洗い流れる清滝川を越えて、対岸の深瀬の山々が錦繍の衣を纏うて、四季折々、朝暮刻々の風尚を見せてくれる。桧、杉、雑木の翠緑が、かくも美観を見せるものとは、知らなかった。紅葉の山に雨雲が烟る白さ。枯葉の相を山禽の弱羽が撫でる鋭さ。禅宗公案であるかも知れぬ。
 更に奥の身舎は、左右の二室に分れる。合掌形の天井裏を見上げてほしい。不思議な天丼板の面を眺めてほしい。
 鋸で引いた板目でない。鉤をかけた滑らかさではない。斧で割った割目ではない。ある古建築専門の博士が、渓川の水で割った割目であると言って教えて下さったことがあった。用材は礫(いちじである。礫の丸太の切目に、少しばかり斧で割目を入れて、渓川に沈めておくと、幾年か幾十年かの間に、割目に渓の急流が浸み込んで行って、少しずつ割目を深めて行き、木を裂いてくれるのであるそうだ。渓川の急流が裂き割った板目であるとか。
 本当かどうかは知らぬが、そう言われて見ると、そうかとも思える不思議な板目である。全く珍しい。無双の天井板ではないか。
 ここに春秋をくらした明恵上人は六波羅探題北條泰時に召されて、政治の要諦を説き、無欲悟淡を教えた。その他衆人の聞法受戒に参集するものが彩多であったことは、冷泉定家の『明月記』にも記しておる。建礼門院徳子が上人から受戒したことは有名である。
 明恵上人の最も心を痛めたことは、承久合戦のため、宮方に忠勤をつくした公卿以下に戦死者を出したので、その未亡人を如何にして救済すべきかであった。上人は彼女らに説いて、亡夫亡父兄の菩提のために、経巻の謹写をすべきを勧めた。いま尼経と言って、女性の筆になる小文字の経巻が、多数、本寺にある。
 その一人に中納言中御門宗行の後室戒光尼もあった。貞応2年(1223)西園寺公経に請うて古堂を麓に移し、善妙尼寺と言った。高山寺本堂の半丈六釈迦像を請うて本尊とした。佛師快慶の作であると言われる。
 貞永元年(1232)上人入寂。尼僧は悲嘆の余り、上人の菩提のために、華厳経を書写した。55巻ばかり現存し、善妙尼寺経と言われる。その奥に「願以此経書写功力、生々世々。受持不忘、大師和尚不離暫時、在々所々値遇奉事」という追慕の至情が謹書してある。
 明恵上人は非常な美男であった。その美貌を慕うて来山する婦人の多きを嘆いて、自ら片耳を削り取って醜面にしたとも言われる。
 明恵上人が松の樹の枝に禅座を設けて合掌静止せる肖像画は有名なものであるが、それがさきにも言った縄松樹の座禅像であるが、これは上人の半面像で、削った耳の方は隠されておる。

 明恵上人は茶道史の上からも有名である。栄西禅師が宋に渡って彼地の禅苑等に行われておった喫茶の風あるのを見て、養生延寿の仙薬として喫茶の術を普及した。そのとき宋から持ち帰った小壺に入れた種子を、道友の明恵上人に分与したので、上人は栂尾の深瀬山三本本に播いた。後にその苗木を宇治にも移植した。宇治茶も有名になったという。その容器は柿帯(かきのへた)という銘がある。宋窯の鉄釉の上品なものである。高山寺に尚蔵されてあるのを拝見したことがある。さもあろうと思う。
 また明恵上人は、実に珍しいことを記録しておいた。それは毎夜に見る夢を何年かに亘って丹念に記し留めておったのである。「夢の記」と言われて斯道ではとても珍重に取扱っておるものである。常に春日明神や神鹿をよく夢中に拝しておる。
 自分の夢を多年に亘って記録したという文献は、滅多にあるものではあるまい。世界唯一の珍書であるというよりも、人間というものの「心」の記録として、世界唯一の尊重なものではなかろうか。
 「夢の記」によって「夢」とは何ぞや。人間は何故に夢を見るものであるかを、調査研究してほしい。人間研究の絶好の資料ではあるまいか。
 どうして哲学者は、この「夢の記」を無視しておるのか。少し叱りつけたいような気がする。
 明恵上人についてもう一つ言っておきたいのは、上人の花押のことである。それは上人の花押に明らかに梵字が含まれておることで、わが国の花押は平安時代初期藤原佐理のもの以下、歴代の天皇を初めとして、皇親摂関家大臣大納言以下の公卿から、平清盛源頼朝以下の武家は勿論、学者芸能人僧俗商工業者農民町人百姓まで、すべての人々が持っておったが、梵字の含まれておるのは、明恵上人と日蓮上人との、唯二人しかない。思うにこの両上人は、当時の佛教をもって足れりとせず、直接印度の梵語について研究し、釈尊の声を直かに聞かんとされたのであろうから、梵経の研究に努められたが、その熱心の一端が、この辺に現われておるのではなかろうか。

 高山寺に詣ずる人の殆どは、鳥羽僧正の筆と伝うる白描の鳥獣戯画に心を奪われて、これを見ることに満足して帰るのであるが、鳥獣戯画は、高山寺の宗教には何らの関係はないのである。たまたま寺の什宝として伝来したにすぎないものであって、寧ろ外道の宝物にすぎない。
 それに最も心を注いで来往する人を、悪いとは言わないが、寺家はそれよりも明恵上人の法徳を慕うて来る人々のために、何かを考えてほしい。
 高山寺には、もっと凄い寺宝があり、もっときびしい宗教がある。華厳の道場である。もう少し真剣に寺を見てほしい。佛教を守ってほしい。