京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

三十三間堂と方広寺あたり~仏の世界と秀吉の栄光

 七条通りは、鴨川にかかる七条大橋から東へ次第に勾配が大きくなって、東大路で終るが、その東山七条あたりは、古いものと近代的なものとが共存している特異な場所である。古さびた土塀や石垣の中に、近代的な病院や学校が平然と存在しているのを発見すると、京都の将来がどうなっていくのかを考えさせられる。七条通りの東のはずれの智積院、博物館のとなりの豊国神社、方広寺、さらに東山阿弥陀ガ峰の豊臣秀吉の墓等、秀吉そのものであるといわれた桃山時代への入口がいくつもある。国宝となっている長谷川等伯の「楓図」をはじめとした障壁画の数々が、智積院には残されているが、京都に起こった大火、戦火のあいだをくぐりぬけて残された過去の文化の一部分として、現代の私たちに強くせまってくるものがある。戦火といえば、応仁の乱にも焼けなかったのが、八坂塔と三十三間堂である。

 三十三間堂は、柱と柱の間が33あって、全長118メートルの長大な堂で、長さでは日本一だろう。だが、この巨大さをとらえることは困難で、写真でも寸づまりな感じになってしまう。もっと広い場所にあれば、この堂の持つ長大さを十分にとらえることができるだろうと、いつも思う。むしろ堂内にはいったほうが、その長大さをよく知ることができるようだ。1001体の千手観世音について、ある人は「仏像の大合唱団を見るような偉観」と表現し、ある人は「幽暗の中に金色の雲のようなものが揺曳している」といった。観世音は、33に変身して衆生を救済されるため、この堂内には3万3千33体の観世音がおいでになることになるという。なき人の面影を千体の仏のうちに見つけることができると信じられているためか、ひとつひとつの顔をたんねんに見ていく人々も多いようである。平常は神仏を信じなくても、ここでは、仏の無限の慈悲を静かに考えさせられる。

 七条通りをこえた北には博物館がある。三十三間堂とは対象的な赤れんが、スレートぶきのルネサンス建築である。明治28年に建てられているから、もう古い建物の仲間入りをしている。ある人はこの国立博物館の屋根の天然スレートの並びを「怪魚の背のようだ」と言った。この博物館の西は、大和大路通りであるが、そこには秀吉が築いた方広寺の巨大な石組がある。「京の京の大仏さんは、天火で焼けて、三十三間堂の焼けのこる」と童歌にあるように、秀吉の栄光はこの石組だけが物語ることとなった。現在、方広寺にある木像大仏は、天保14年(1843)に再建されたもので、巨大な造形感覚をもっていた秀吉のイメージとはまったく異質なものになっている。古代の巨石文化を考えさせる石組と豊国神社の唐門には、共通した要素があるといわれるが、たしかに、秀吉がつくった文化には底知れぬものがある、と認めねばならないだろう。方広寺には豊臣氏を滅亡させたという有名な「国家安康、君臣豊楽」の銘のある梵鐘がある。つい最近、重要文化財に指定された。このあたりは何か淋しいところで、訪れる人もそう多くない。

 方広寺の西には、大和大路をへだてて耳塚がある。これも秀吉の栄光を物語るものではあるが、その存在も、今日では忘れられようとしている。沈みゆくオレンジ色の太陽は、耳塚を小さなシルエットとして見せてくれる。

東福寺と伏見稲荷~東山南麓の魅力

 東福寺へ通ずる石垣と土塀のある道は、静かで古都探策の目的をもつ旅人を十分満足させてくれる。ともすれば、京都は南へ行くにしたがって、古都という言葉を失いがちであるが、東福寺あたりが古都の南限かもしれない。

 檜皮葺の月下門の前から、洗玉澗という渓谷にかかる屋根のついた臥雲橋までくると、別の世界の入口に立っていることに気づくだろう。すっかり庭園となっている渓谷には、カエデがいっぱいあって、少し上部に通天橋がかかっている。昔から通天の紅葉として有名であったらしく、特に開山忌の頃がいいといわれている。開山の聖一国師は「楓林の紅葉久しく保たず」と栄華におぼれるのを戒めているが、何か皮肉なものを感じる。小さい流れに紅色の葉が流れていく秋の終りの日は、淋しさよりも美しさが先行している。

 東福寺は、京都の寺にしては珍しく、明るい上に強いアクセントが各所に見られる。室町初期の再建になる三門も荒れはててはいるが、素朴で力強い表現でせまってくる。柱の1本1本も、長い年月の風化作用ですっかり傷めつけられている。もう、根本的に改修しなければならない時がきているようだ。本当の自然保護とは、やたらに人間が保護の手を加えるものではなく、自然のままにしておくことだ、と誰かがいったのを思いだす。ある禅の老師は、禅宗の将来について「いつかは亡びるでしょう、それが釈尊の教えですから」と答えたというが、今の我々の知恵では、やはりこの国宝は修理しなければならないだろう。三門の2階からは展望が良く、京都の南部が望まれ、近代的なものが四周から次第にせまりつつあるのがわかる。

 東福寺の南には、稲荷山があって、そのふもとには稲荷神社がある。もと農耕神として発生したものであるが、江戸時代にはいろいろの稲荷ができ、開運出世、商売繁盛の神となった。「伏見稲荷はいつの時代にも現世的だった。だからさかんなのだ」と、丹羽文雄も書いている。稲荷といえば、狐と朱の色の鳥居で有名である。朱の色の鳥居のトンネルをくぐりながら歩いていると、俗界とはまったく隔絶されてしまったように感ずるから不思議である。全山の鳥居の総数は1万とも2万ともいわれているが、ともかく無限に存在しているようである。ひとつ1000円程度のミニ鳥居から数百万円のデラックスなものまで、何かの願望の表現として林立しているのだから、神様も大変だと思う。

 東山は、一応桃山のあたりで終り、別の醍醐山地が南の宇治川までのびている。秀吉がここに伏見城を築いたのは、宇治川をひかえた形勝の地であり、西国出入ののどくびであったことが理由だとされている。

 伏見は伏水の文字のとおり、良質の地下水にめぐまれたため、灘に次ぐ銘酒をつくってきた。土蔵造りの白壁の酒蔵、杉桶、本樽、そして杜氏の歌も次第に姿を消し、近代的な醸造技術で進められている。いくらか残っている白壁の酒蔵を発見すると、時間旅行者になったような気がしてくる。かつての港町としての伏見の姿も消失してしまった。「都ヘノボル高瀬船、難波ヘ下ル悼ノ歌」は、今や遠い昔の物語である。再現した伏見城には、何の感動も得られないといえば、うそになるだろうか。
東福寺

平等院と万福寺~極楽浄土への願い

 流れ出る川がひとつしかない琵琶湖の水は、石山のあたりから山間を縫い、宇治で初めて平地にほとばしり出る。「ころは一月廿日あまりのころなれば、比良のたかね、志賀の山、むかしながらの雪も消え、谷々の氷うちとけて水は折ふしまさりたり。白浪おびただしうみなぎりおち、瀬まくら大きに滝鳴って、さかまく水もはやかりけり」。佐々木高綱と梶原景季との宇治川先陣争いを描く『平家物語』の一節が、その流れの早さを伝えている。人々はこの急流を渡りかね、いつも川のほとりに群れをなしていた。強いて渡ろうとして、命を失う人も多かった。それを見かねて、奈良元興寺の僧、道登が橋をかけることを発願した。大化2年(646)のことである。

 「この橋を構立して人富を済渡す。即ち微善によりて、ここに大願を発し因をこの橋に結びて果を彼岸になさん」と、宇治橋のたもとにある橋寺に残る日本最古の石碑といわれる「宇治橋断碑」は、道登の願いを伝えている。

 橋は「この岸」と「かの岸」とを結ぶものである。 彼岸とは、文字通り向う岸であると同時に、あの世(極楽浄土)を意味する。道登はこの橋によって、「彼岸」に渡りたいと願ったのだ。宇治川の「彼岸」に平等院があることも、ひとつの彼岸思想の表われであろう。

 「極楽うたがわしくば、宇治の御寺をうやまえ」と当時の人は称えたという。清少納言が「遠くて近きもの、極楽、舟の道、人の仲」(『枕草子』より)といったように、平安中期の人々にとって、極楽はけっして遠いところではなかった。栄華をきわめた藤原貴族の力をもってすれば:この世に極楽をひきよせることも可能であると考えた。道長らは争って寺をつくった。「御前の庭をただかの極楽浄上の如くにみがき、玉を敷けりと見ゆ… この世のものとゆめに覚えず、ただ浄土と思ひなさ」れたと『栄華物語』は伝みる。

 かれらは、この世が極楽であり、そのまま死後の世界にも続いていると信じていた。平等院道長の子、関白頼通が天喜元年(1053)に建てたもので、極楽浄土をこの世に出現させようとしたものである。鳳凰堂の前の池は、極楽にあるという八功徳水池になぞらえた。いわゆる浄土庭園と呼ばれるものである。蓮の花の咲く池に浮かぶ鳳凰堂、正面の格子戸に円くあけられた窓から金色に輝く阿弥陀如来の尊顔を拝する時、人々は極楽を身近に感じとったことであろう。

 「山門を出れば日本ぞ茶摘みうた」(菊舎)の句で知られる黄檗山万福寺は、宇治市の北のはずれにある。王朝の道風を漂わせる平等院に対して、純中国風のこの寺は好対照を見せる。万福寺は中国から渡来した隠元によって寛文元年(1661)に開創された。隠元以来13世の竺庵に至るまで、代々中国僧が住職をつとめるならわしがあった。建物はじめ、お経のよみ方、日常の作法など、すべて中国風を残している。江戸時代初期、知識人にもてはやされた中国趣味のひとつのあらわれであろう。いんげん豆は隠元が中国からもって来たといわれるが、この寺に伝わる料理は、いわゆる普茶料理と呼ばれ、精進料理の代表的なものになっている。油の使い方など、一種の中華料理と呼んでもよいほどで、古都にあって異国情緒を漂わせている。