京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

桂離宮

 中国の人ほど美しい世界を想定した国民はあるまい。中国の文人ほど文字を巧みに使った文人はあるまい。中国の詩ほど漢字を奇麗に使い分けた文学はあるまい。

 それは一に漢文字の湧き起す芳香のためかも知れない。形象によって発明された文字のおかげで、文字を陳べることによって、絵画で描いたと同様の雰囲気が出せるのであるから、素晴しい文学作品が出来る。文字は単なる音符ではない。物象を伝える色彩なのである。物象だけではない。その内心、その作用までをも示す魔法なのである。

 その上に中国音がよい。漢音は少し冷たいが、呉音や唐音に到っては、実に柔かい音感を持つもので、聞いておると毛氈の上を歩いておるような気になる。

 例えば、月を表現するに月宮殿といったり、月面を見て、桂樹の傍に兎が餅を搗いておると見立てて「月兎」「玉兎」という言葉を発明したり、天変地異にみな人情を通わせて、慈雨猛風と表現したりしておるのは、世界の中で、中国を措いて外にはあるまい。

 中国の詩人墨客が、如何に天地万物に心を通わし、それを美化し、それを楽しんだか。虹を霓裳羽衣とはよくも形容した言葉かなと、ほとほと感心さされる。よくも選んだ文字かなと頭が下がる。

 妙な事を書き出したのは「桂」という地名に、文字に、ある私の夢が、詩が、趣が、宿るからであり、何となく「月の桂」という連想が湧くからである。桂という文字が、そのイメージが、桂離宮にどれだけの錦裳繝衣となって、日本人の心を掴えておるだろうか、を想うからである。

 修学院離宮桂離宮とを並べて見ると、その内容の実際ではなく、この名称だけで、前者に何となく思索的な貴族的な気分があるとすれば、桂には、何となく明快にして静けさ、親しみやすさが想われるであろう。

 桂の離宮には、月光の清自純潔さが漂うかに思念するであろう。

 豊臣秀吉はその内心に、何となく翼々たる弱さがある。その素性についての弱さであろうか。少年期の学問不足に悔いを感じておるのであろうか。それとも本能寺の変で、思いがけなく一瞬にして天下人の大道が歩けた幸運に対する反省、不安であろうか。

 思い切って大きな事を企てるやに見えるけれども、図外れた華美を打ち出して見せるけれども、それは、半面、自分の弱点を覆わんとする煙幕かも知れない。案外に戦々競々たる日常ではなかったか。

 謂う意味は、小心翼々ということよりも、自分の四方周囲に向って、用心充分であったという意味においてである。秀吉ほど、用心深い人はなかったのではないか。智恵の廻りの速さ、感の鋭さは、群雄を畏服せしめるに充分であった。

 決して磊落、野放図、出鱈目の男ではない。

 彼は考えた。

 秀吉は後陽成天皇の皇弟智仁親王を自分の猶子に迎えた。一は親王をその猶子とすることによって、豊臣の家柄を飾ることになるし、もう一つは、若し、若し、若しであるが、不日、皇室と不和の生じた時、智仁親王を奉戴して、義兵を挙げることが出来る―まさか、そこまでは行くまいが、千万一の場合に、挙げ得る準備を完成しておくということは、宮廷を脅すことに役立つからであろう。そこで智仁親王のために相当な所領を奉寄しておいた。

 智仁親王の御邸は今出川通の鳥丸東にあった。今の同志社大学正門の前、京都御所今出川御門」の東側にあった。「今出川殿」と言われた。千宗旦親王家には御出入が叶うたらしく、宗旦の手紙の中にも「今出川殿」云々の句が、幾度か出て来る。

 然るに今出川殿の身上に大きな変化が起った。大阪城の落城―豊臣家の滅亡で、天下の覇権は完全に豊臣家の手から逃げて、徳川氏の掌中に移った。

 かくて徳川の時代になってみると、今出川殿の立場はどうなるだろう。

 今出川殿の背後にあった大きな勢力が消え去ってしまった今日となっては、今出川殿は、もう「御用」のない存在であったろうか。たしかに「御用」なき無用の長物であったらしいが、実はそうではない。特に徳川幕府から言えば、目の上の瘤的存在である。

 というのは、徳川氏への政権移行が、一面においては、かなり悪辣であったことは事実である。豊太閤の遺芳はまだ諸大名の上には消え去っていない。殊に東西各地の雄藩中には、徳川氏に心服していないものが多かった。そのとき、今出川殿には相当な財産があることは面倒な事件になるかも知れぬ胚子である。反徳川の大名達が、今出川殿を盟主と仰いで、反江戸の旗を挙げる惧れがないとは言えない。今出川殿は恐るベき怪鬼である。それをして、如何ともすべからざる状態に追い込む必要がある。判り易く言えば、今出川殿の財産を消費してしまう方策を案出することである。

 八條通桂川西の地が相せられた。そこに今出川殿のために別荘を新構することである。桂離宮はかくして出現した。今出川殿はここで八條宮の宮号が与えられた。桂宮家が出来た。

 桂離宮に、そうした隠れたる事情の伏在を考えると、案外に解けることがある。

 それは桂離宮の北半と南半とは全くその景観が違うことである。北半は、度にすぎたほどに岩や石を入れすぎており、何となく混雑多様の趣があるに対して、南半は殆ど石を使わず、樹木も少く簡粗明朗である。庭園観賞家は、これを次のように説明する。

 桂離宮は、巧みに陰陽二元を組合した名苑である。北は元来が陰の方角であるから、わざと木石を多く入れて賑やかな庭に仕立て、南は陽の方角であるから、木石を出来るだけ使わないで、静かにして、もって南北のバランスを取ったものである。陰陽繁素の妙味が充分に含有されておるのである―と言ってくれる。

 しかし、それは離宮全部が、始めから右様のプランがあって構築されたものなれば、あるいは首肯し得る説明であろうが、実は智仁親王の御一代では北半が出来ただけで、未完成のままに終った。それは凡そ元和から寛永の交(1620-)であった。第二代の智忠親王のときになって、その夫人を加賀の前田侯から迎えたので、やっと南半分が出来たのであると言われる。正保2年(1645)の前後である。もう少しはっきり言うと、北半分を造作することによって、智仁親王の財産を遣い果してしまって、どうにも仕方がなかったのを、二代目になって漸く前田侯の財力によって、ともかく完成したのであるということである。

 北半分の造園で、江戸幕府の目的は達せられた。智仁親王の財力は枯渇した。幕府としては、それでよかったのであった。

 洛北詩仙堂石川丈山は一代の間、鴨川を越えなかったことを自慢にしておった。洛中には足を一歩も入れず、専ら洛外で暮したと呼号しておるに拘らず、丈山の作になる桂別荘八景の詩がある。昔、離宮の一室に、この詩8首が板に彫って掲げてあった。少くとも桂別荘の作事に丈山が触れておることは確かである。

 丈山がどういう性質の詩客であったかを考えれば、桂別荘造作の裡面が覗けるではないか。

 もう一つある。

 寛永6年(1629)4月7日智仁親王は51歳をもって帰幽された。その一周忌に当る日の前日、寛永7年4月6日。智仁親王の王子智忠親王は御年僅かに13であったが、その日極めて覚東なき筆致をもって一通の誓約書を書いておられる。宮家を出て勝手に京の街々を出歩かないこと、人の噂を耳にするとも、それに心を動かされざること、人からの忠告、申し出、請託があっても、一切採り上げないことを、生嶋宮内少輔以下3名の宮侍にあてて誓約を渡しておられる。それでやっと二代目の宮として、父親王の後を嗣ぐことが出来た。

 それは八條宮の宮務を掌っておる宮侍なるものが、如何に実力を持っておったかを、明らかに示しておることで、それも、その半面を見れば、生鳴以下の宮侍が、幕府からの附人であるから、幕府の意響に背向いては宮家の相続が出来なかった、という事が含まれておるのである。

 八條宮はこの後もなお、穏仁親王、長仁親王、尚仁親王文仁親王と歴代天皇の皇子が宮家々系を継がれておる。宮家の資財があるからであろうが、それは恐らく極めて微々たるもので、二代智忠親王のときの前田侯が寄せた好意の名残りであろう。

 桂離宮を拝観するとき、前記の歴史を心に挾んで、庭石を踏んでほしい。決して庭石から足を外して、苔を踏むといった不作法をしてはならない。