京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

京都御所と高野悦子「二十歳の原点」

 京都の核とも言える存在は数多くあるが、その代表格の一つが京都御所であることは誰もが認めるところであろう。そこを舞台にした文学作品として、ここでは高野悦子「二十歳の原点」を取り上げてみたい。
 同作品では、様々な場面で京都御所が登場する。主人公である高野悦子が通った立命館大学文学部あった広小路キャンパスは当時、京都御苑を含む京都御所のすぐ東側にあった。彼女は大学1年の時に一人やクラスメートと京都御苑で時間を過ごしている。 

 「御所での話し合い」(1967年4月22日)、「仏語をさぼって御所でのんびりした」(1967年6月16日)「御所で長沼さん、松田さん、浦辺さんと話す」(1967年9月18日)。しかし高野悦子は大学キャンパスとの縁が遠くなり、再び御所について記述するのは大学3年の時である。「御所で一服」(1969年5月5日)、「御所で11時ごろまで話す」(1969年5月17日)、「御所で2回あい、テレを数回」(1969年6月2日)。もはや大学とは別個の存在として京都御所が登場していることがわかる。
 しかし高野悦子「二十歳の原点」では京都御所の詳細について触れられている部分はない。

 そこで、当時の状況に基づいて京都御所の拝観に移ろう。
 その前に注意すべきことが二つある。その一は皇居の周囲が、巾3尺足らず深さ7、8寸の御川溝で囲まれており、これにより、外界と聖地との差格をつけておることである。これが唯一の防禦柵である。余りの貧弱さに頭を傾けるが、考え直してみれば、この御川溝は少しも防禦柵の意を含まず、外界の汚れを内部に入れじとする「みそぎ川」であると思う。
 第二は宮城正面の建礼門である。
 この門は天皇のみが通御される門で、以外の者は通れない。
 それについて考えたことがある。門を開くとか閉じるとかいう漢字についてである。閉の字は門構えの中に戈の字がある。戈は一種の武器であり、鍵であろうから、それを門につければ即ち門は閉じられたのである。ところが開の字は門構えに「幵」を加えてある。門を開けたならば、その門は何人も通れるべきであるに拘らず、通過してはならないと言わんばかりに門の中に「幵」を加えておる。これは通ってはならないという意味であろう。とすれば門を開いた意味が失われる。折角開いたのに通さん弁慶をしては開いたことが無意味になる。―と考えたのであるが、建礼門前に立って建礼門を見た時、先の考えの幼稚さに恥ずかしくなった。建礼門は、よし開いてあっても、只人の通るを許さぬので、そこに一つの柵がある。通る資格のなきものは通さないという厳然たる意味が、開の一字に含まれておるのであった。

 御所の周囲は筋壁練塀が蜒々として繞らされておる。これが御築垣である。築垣の諸所に諸門が設けてあり、われわれは西側北寄りの御清所門を通って内庭に這入る。築垣に沿うて古松老松幾株かが植えられておるが、築垣の自亜に映えた松の下枝が、地を這わんばかりに垂れ下がっておるのは、如何にも宮廷らしく、外界ではめったに接せられぬ清姿であり、これだけでも心が引きしまる。
 御車寄、諸大夫の間、新御車寄の前を通って月華門から紫宸殿の前に出る。今は「ししんでん」と言うが「ししいでん」と言うのが有職よみである。宮城内第一の御殿で、南面しておるから、「なでん」とも言われる。九間四面入母屋造桧皮葺の壮大な建物。南の軒の下に「紫宸殿」の大額がある。賀茂の書博士岡本保孝の筆と言う。
 構造は寝殿造で、中心を母舎と言い、その外側一間通りを廂という。更に外周に簀子を繞ららす。簀子には勾欄を附す。母舎中央に御帳台(高御座)を安置する。その後に賢聖障子と言って、中国古代から漢唐に至る賢人功臣32名の肖像がある。嵯峨天皇の時に始ったとか、宇多天皇の御代に巨勢金岡に描かしめられたとも言う。

 南殿の下は宏々とした白砂敷で、晴明そのものである。南階の左右に左近の桜(東の方)右近の橘(西の方)が植えられており、御殿と御庭は廻廊によって取り囲まれておる。廻廊正面に承明門がある。
 南殿の前になぜ桜と橘が選ばれたか。橘は古来不老の仙薬として重んぜられた霊木であるから、わけも判るが、桜に至っては、全く選ばれたわけが判らぬ。中国風に言うならば梅こそ百花に先立って匂ふ木であるから、聖樹として選ばれて然るべきであり、現に大覚寺寝殿前は左近の梅である。今でこそ、桜は日本の国華であり、大和魂の標職であるかに言われるが、万葉古今集の時代までは、移ろう花として余り重んぜられていない。それがかかる地点に選ばれ植えられるは、不可解という外はない。
 何れにしても、承明門の前に立って南殿を仰視する時の気分は、天下何物にも勝り、神代の神の姿もかくやと思わしめるものがある。
 紫宸殿の中央に高御座がある。天皇此所に臨御して即位の式をあげ給う。
 その左側後方に皇后の御座がある。
 天皇南面して国民に臨まれるので、天皇の左方は東になり、右方が西になる。故にわが国では左をもって右よりも上と考える。左京の方が右京より何となく先であるかに思われるし、左大臣は右大臣より上級である。
 ところがこれを欧州の風習で見ると、右がライトで正しく、左はレフトではずれておる。右党右派は政府党であり愛国党である。左党左派は反政府である過激党である。
 これを中国で見ると、左道、左遷は、好ましからざる意味であり、「その右に出ずるものなし」という言葉は、右をもって最上としておる意味であろう。
 左を上とするか、右を上とするかは、どうして定められ、どうして如上の差が出来たか。
 察するに南面する天皇を中心にして言えば、太陽の出る方角東が左となり、日の没する方角西が右に当る。だから日の出る方を上と考えたのではないか。
 北面して帝王に接する国民から言えば、陽の出る方が右になり、日の没する方が左となるので、右を尊び左を下位にしたのではないか。
 そこに国民が帝王に仕える国と、国民から主権者が撰ばれた国との相違があるのではないか。短言すれば帝王中心か、国民中心か、の思慮の別が左右の上下に、含まれてあるやに思う。

 それについて言及したいのは、雛人形の並べ方である。
 三月の雛祭に際して雛段の上に並べる男雛女雛の、何れを左にし、何れを右にすべきか、の疑念について、私案を提言したい。
 第一、飾る人形が、天皇皇后を象った内裏雛の場合。
 至尊を中央にし、その右(向って左)に女雛をおくベきであって、至尊の左(向って右)に女雛をおいてはならない。何となれば左は右より上なのだから。
 第二、人形が内裏雛でない場合は、その反対にすべきである。それは内裏雛に遠慮する意味をもってである。
 内裏雛は、人形を御殿の中に飾る場合、男雛の冠の櫻が、立緩と言って立っているから判断が出来る。摂政関白以下の臣下は垂親と言って後方に垂れておるのであり、至尊の纓のみは立ててある事が、王朝以来の故実である。

 紫宸殿の西北に清涼殿がある。中殿とも言われ、聖上の御座所である。九間四面入母屋造桧皮葺、東面する。母舎、廂、孫廂、賽子すべて典型的な寝殿造である。母舎の中央よりやや南寄りに、南北5間東西2間の一画があって昼御座とする。中央に御帳台があって聖上出御の座である。その東南隅に石灰壇と言って床を石灰で固めた場所がある、聖上毎朝伊勢大神宮を御拝される所で、庭上の意味をもって石灰を塗っておるのである。昼御座の北に夜御殿があり、天皇寝御の場である。その北に弘徽殿、藤壺があり、皇妃女御の居所である。
 清涼殿の南の一角を殿上の間という。日々出仕した摂政関白以下の奉仕する場所で、中央に4尺の切台盤1脚と8尺の長台盤1脚がある。前者は、関白大臣蔵人頭の食卓であり、後者は、以外の人々の食卓である。殿上の間に昇れる人が「殿上人」で、昇れない人が、「地下人」である。
 中段の東面庭上に2ケ所竹を植える。南寄りにあるのを漢竹台、少し離れて北方にあるのを呉竹台と言う。
 この東庭で四方拝、小朝拝その他の諸儀式が行われた。
 清涼殿の裏庭には萩が植えてある。そこを萩の壺という。宮中にはこの他に、桐を植えた桐壺、梨を植えた梨壺、藤を植えた藤壺等があった。
 少し先を急ごう。

 小御所、御学問所の前を通って御常御殿の東面に出る。老樹、矮樹、潅木に配するに奇岩珍石をもって周囲を飾った池庭がある。如何にも御内庭らしい柔かさと豊かさとが溢れておる。正面東方の一郭の梢を打ち払うて大文字山が正面になるように工夫されている。東福門院の台覧に備えて「大文字」が点ぜられたのであるという一説の生れる場所である。その北に「地震殿」という珍しい小亭がある。万一地震の起った時に、避難される場所で、この小建築には耐震の妙案が工夫されておるらしい。

 小御所の東にもう一つ御池庭がある。借景本位の廻遊式泉水で、池中に中島を作り、橋を架け、石組もあり、西岸の一部は刈込式であるが、他は栗石をもって一面を敷きつめ、それを浜辺と見なし、その周囲は白砂をもってしておるので如何にも広々と見え、寝殿造の建物とよく調和し、品格第一、私の好きな庭の一つである。

 京都御所の東南に仙洞御所がある。仙洞とは上皇の御所の意で、寛永6年(1629)徳川幕府が、後水尾上皇のために御造営したもの。桜町宮又は桜町の仙洞とも申した。御殿は数度の火災に災いされて、嘉永以後再興されなかったので、今、建物なし。しかしその御庭は全く素晴しいもので、折角京都に住むならば、折角京都に来たならば、一度は拝観すべき仙苑である。
 東西約100メートル、南北300メートルの広大なる地域に、大きな池を作り、比類少き奇岩や怪石を配し、老樹古木枝を交え、全く深山幽谷の姿を現わす。そこから園池に出るが、その途中に屈折した石橋があり、その上を藤花の紫で覆う初夏の景観は、誰しもの心を奪うものである。
 北苑は巨石を組んで「真」の山水とし、中苑は滝組を中心とした「行」の体であり、南苑は小田原石を敷いて浜を作り、中島を配し「草」の姿であると言う。
 寛永11年(1634)小堀遠州が庭師賢庭を用いて作庭したと言われておるが、果たしてその所伝を信ずるならば、小堀遠州の作庭技能は全く敬服に値する。
 この池辺に佇むこと一刻、静視すること一刻、小堀遠州が好きになった。
 実を言うと、茶道の先輩としての小堀遠州、華道の先賢としての小堀遠州には、少し、きざなところが見える。現存する小堀遠州の書状は数千通に上るであろうが、その筆蹟を見ると冷泉定家に学びて至らず、その書き振りは、受け取った方で軸物に仕立てて床間にかけるであろうことを予想し、茶室の掛物としても効果を狙ったかの感があり、何となく気取った所が見えるので好感を持てなかったが、いまここで仙洞御所の庭を拝見して、私のさきに述べた感想は、偏見である事を悟った。遠州公小堀遠江守正一氏にお詫びする。
 さてこの庭の一隅に「阿古瀬淵」という一潭があり、紀貫之の旧棲地と称えておるが、むしろそれよりも、御堂関白道長の住居京極殿か、法成寺阿弥陀御堂の苑池ではなかったかと思う。

 仙洞御所の西北に大宮御所がある。寛永年間徳川幕府後水尾天皇中宮東福門院のために造進したもので、大宮とは皇太后又は天皇の御生母である皇妃を言う。もとは仙洞御所と廊下でつながれておったが、嘉永7年(1854)炎上して後は、再興されず、わずかの殿舎を存するのみ。

 京都御所を拝して、しみじみと感ずることは、徳川時代の朝幕関係である。徳川家康が江戸に幕府を構えたことは、足利氏が宮廷近くに幕府を構えて、文弱化した轍を踏まじとする深慮であったろう。その頃、朝幕関係はさまで悪化したとも見えない。
 しかし、足利季世になると、あまりに幕府の腑甲斐なさに、朝臣の中には王政復古を志す者があり、戦国諸侯の中にも、勤王をもって旗印となし、入洛を計る者もふえた。その頃の歴代天皇は「従神武百余代之孫何仁」と自署されることもあって、宮廷内には何となく王朝復帰が偲ばれておった。だから織田信長は右大臣であり、豊臣秀吉は関白であり、徳川家康内大臣であり、前田利家は大納言であった。何れも文官であって、武官ではなかった。然るに徳川家康が幕府を構えると、征夷大将軍を要望した。朝廷はこれを遮れなかった。朝廷の底心に不満があったことは隠せない。その時の家康の実力は絶大であって、例えば紫宸殿を改構しても南面階段3段の低さで朝廷を押えておった。
 ついで、後水尾天皇の御代になって、二代将軍秀忠の女和子が、東福門院となって入内した。その際幕府は種々の策を弄し、後水尾天皇を窮地に追い込んで東福門院の入内に成功した。幸にして、和子の淑徳円満であったために、後水尾天皇の荒々しい珍慮は表面化しなかった。しかし幕府はそれを恐れて、後水尾上皇のために、修学院離宮の造営をはじめとし、御所にも寛永御造営が諸所に見え出した。
 三代家光の時は将軍の威風が天下を風靡したので、宮廷内の不満も屏息するかの外観を見せた。将軍家でも四代五代六代になると、その屋台骨にひびが現われはじめ、何となく天下に勤王の気分が見え出した。
 松平定信光格天皇の寛政2年(1790)に18階段の紫宸殿を造営したのは、定信の勤王の志とあがめることも出来るが、18階段をもってしなければ、朝廷を押圧することが叶わなかった弱音とも見られる。
 光格天皇の御父閑院宮典仁親王太上天皇の尊号を奉らんとする所謂尊号事件に際して松平定信のとった強圧的態度は、却って勤王志士を刺戟することとなり、幕府の衰運を早めたかに見える。一方朝廷においても尊号事件が果たして成功するとは考えておられなかったであろうが、それだけ朝廷にひそかな自信が芽組み出したのではなかったか。
 南殿18階段に関してふと頭に浮かんだ愚見である。

 京都所司代の花押についても一考察が出来る。
 そもそも所司代なるものは、「所司」でなく所司「代」である。所司ならば恒久的の意味を有する役目であるが、代の字があるために、臨時的なものであることを暗示し、不日罷められるべきである役所である。だから朝廷も京都都民も、一時的のものとして、その設置に反対しなかったのである。
 初代板倉勝重、次代重宗父子の人徳よろしきを得たので上下公武の臣庶の信望厚く京都都民を安堵せしめた。板倉父子は親切丁寧に社寺及び街々の行政を指導した。その時に所司代が下知状に自署せる花押の大きさは、5センチ内外で、所司代程度の武士として、普通の大きさである。ところが以後の所司代の下知状を年代順に眺めて見ると、不思議なほど、年代と共にその花押が大きくなり、終に幕末に及んでは、掌大に達し、全紙の三分の一を占めるかに思われる。下知状の用紙は雁皮紙を用い、用墨は紅花墨らしく、墨痕淋潤、日も鮮かである。受取った方はたしかにその威風に押されるかに見える。
 ところがその実際は、もう幕府の屋台骨が揺るぎ出しており、所司代下知の如きも、頓に、及ぼす力を失って無きが如き時点に達しておった。
 威張った外形は、却って内容の貧弱さの反映であった。

 先に述べた高野悦子宇都宮女子高校時代を記録した「二十歳の原点ノート」で京都御所を訪れたことを残しているが、その時のことが書かれていないのは残念である。

 さて、ここで人間文化の発達とは何を言うのであろうか。原始人は自分の努力を、自分のことのみにかける。次に文化が進むと、家族のために努力をかけ、部落のために努力をかけることになる。単純なる原始人が、この段階になると、自分の他に家族部落のあることに気づき、彼らと共に存在すべきであることを知った。次の段階になると、その努力を払う範囲が、漸次拡大されて、民族とか国家とかのために、個人の努力は尽くされねばならぬことを知った。現在は民族とか国家とかの範囲を超越して、全人類のために、という段階に進もうとしておる。

 こうした人間が団結した時点において、最大の威力を示すものは政権である。思えば「政権」という思想的なもので、無形のものを、具象するとすれば、それが帝王である。故に帝王とは他の同族とは違って、同族の上に立って同族に臨み、偉大なものでなければならぬ。そのために帝王の服装住居生活は断然他のものと比して、豪華壮麗であることを要する。人間は外形の美に押される心理がある。これは如何なる民族においても、国家においても、古今東西を通じて現われた「歴史」であった。宮城は一国一族の文化の限りを尽くした一つの表現である。

 東亜の一角に領土を持ったわが国は、至近の土地に「中華」という大先輩を持ったが故に、すべての文化、すべての制度設備を教えられた。わが国史聖徳太子以来、画然として光華を持つに到ったのは、隋唐文化に刺戟され摂収したからである。底津岩根に大宮柱太敷立てた古代宮殿は、藤原京に至って大いに趣を改めた。更に奈良京に至って唐の都・長安に模して構築されることになった。桓武天皇に依って遷都された皇都は平安城と名づけられ、東西8里南北9條に及ぶ宏々たる帝都であった。平安城の中央北辺に、東西8丁南北10丁に亘って宮城があり、その中に皇居及び官府があった。皇居を内裏とも言い、宮城を大内裏とも言うが、ここが政権の中心であり、政治の行われる中軸であるから、その構造は厳然格正たるものであらねばならぬ。内裏の内には紫宸殿、仁寿殿、常寧殿、貞観殿、春興殿、宜陽殿、清涼殿、弘徽殿等が屋根の美しさを競うておった。それらの殿舎の壮美さは、当時のわが国力に比して、不釣合と思うほどの立派さであったろう。国力に数倍する宮城築営に踏み切られた桓武天皇の御軫慮に、今更ながら、敬慕の念を捧げたい。

 日本の宮城に大きな特色がある。
 古代中世の欧州を見ても、中国を観ても、宮城は山上又は山の中腹でなければ、段丘の上に構えられ、国民を睥睨するかの感がある。外見上、如何にも政治権力者の強大さを誇示しておる。
 それに反してわが国の宮城は、都民と同一平面上にあって、決して国民を俯瞰するのではない。ただ、わずかに北高南低の地点を選び宮城を構えたので、都民よりも幾分か高みにあるが、それは決して、都民より隔絶したのではなく、むしろ都民と接近しようという気構えさえ見える。
 かつて一英国人を京都御所へ案内したことがあった。その時「宮城の防備はどうしたのですか、暴徒が乱入すればどこで防ぐのですか」と聞かれて、私の心は歓喜に動揺した。
 なるほど、外国人には京都御所を取り巻く淡々たる和平の気分が、不可思議なのかも知れない。わが国においては、暴徒が宮城を犯すかも知れない不祥事を、予想もせず、帝王と国民との間は、親子の情をもって結ばれておったのであった。これわが国史の千古に輝く栄光ではないか。
 防備なき京都御所と、四周に浬を持つ東京の宮城との間に、大きな相違がある。
 平和郷の宮城―京都御所
 それを第一に心に留めてほしい。
 平安内裏は第62代村上天皇の天徳4年(960)に炎上して以来十数度の火災に遭うたが、源平の争乱、南北両朝の争いのために、終に再建を見なかった。その間、皇居は各地に転々し、それを「里内裏」と言った。
 里内裏はその時に応じて、諸所にあった。閑院内裏、富小路内裏、二條冷泉内裏がそれであり、今の内裏は土御門内裏と言われたものであった。方40丈の小規模のものであった。後嵯峨天皇後宇多天皇伏見天皇花園天皇の内裏となり、後醍醐天皇もここで即位された。南北両朝争乱の時は北朝の内裏となり、両朝合一の後、小松天皇以来は引続いて皇居となっておったが、その後戦乱相続いて見るかげもなく荒涼たるものであった。三條の橋から内侍所の御燈明が拝めたという形容で、その姿を言われておったのである。実はそれほどでもなかったろうが、宮中の御窮迫は極度に達し、その日その日の供御にさえこと欠いたのであった。
 織田信長が入洛すると直ちに禁裏の御造営に着手し、四方6丁町の地子を免じ、それをもって宮中の供御に供した。その信長が造営した紫宸殿は仁和寺に移されて金堂になっておる。正面階段は7段。ついで秀吉や家康によって宮城の周囲が整美され、その時家康は紫宸殿を改造した。更に三代家光が壮観を示すに足るものを建造したので、家康の時のものは今大覚寺に移されて寝殿として残っておる。正面の階段は三段。元来紫宸殿の正面は18階段たるべきを旧規とする。それが3段ではあまりもったいないとして、家光は改造したのであろうが、その遺構がないから明言出来ないけれども、恐らく7段か9段であったろう。
 ただし、ここに一つ注意しておきたいのは、家康の造ったのは、ことによると5段7段9段であったかも知れない。それを大覚寺に移したときに3段にちぢめたかも知れないことである。徳川時代になって度々の火災が折角の御殿以下を灰儘に帰したが、寛政2年(1790)松平定信が平安朝内裏の古制に復して18階段の紫宸殿を造営した。18の数は陽の極数である「九」を、天地に配して2倍したものである。安政元年(1854)炎上したが、その再建に際して寛政造営の旧規のままを踏襲したのが現在の御殿である。