京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

京都

おんな寺

洛北、高野川の流れを遡った若狭街道沿いの山間にひっそりと静まりかえる里―大原。寂光院はその大原の草生の里の楓葉そよぐ石段の上に、あたかも世を捨てた比丘尼のようにつつましく竹んでいる。今でこそ、訪れる人の絶えないこの里は、『平家物語』の昔、都…

王朝のたそがれ

繊細優美に磨ぎ澄まされた王朝の文化を作り上げたのは、いつまでもなく京洛の風情ゆたかな四季の自然である。だが、摂関政治の確立後は、政治は摂関家の専制となり、執政の府は年中行事の儀式典礼の場となった。貴族は門閥と膨大な荘園収入の上に安坐して、…

高山寺

京の三尾(さんび)という。秋の紅葉の名所である。高尾山神護寺、槙尾山西明寺、栂尾山高山寺である。しかもこの三尾が、一連の高雄にあることから考えても、この辺の紅葉は天下の絶勝であったことは言うまでもあるまい。 紅葉黄葉の色を鮮かにしてくれるの…

桂離宮

中国の人ほど美しい世界を想定した国民はあるまい。中国の文人ほど文字を巧みに使った文人はあるまい。中国の詩ほど漢字を奇麗に使い分けた文学はあるまい。 それは一に漢文字の湧き起す芳香のためかも知れない。形象によって発明された文字のおかげで、文字…

京都御所と高野悦子「二十歳の原点」

京都の核とも言える存在は数多くあるが、その代表格の一つが京都御所であることは誰もが認めるところであろう。そこを舞台にした文学作品として、ここでは高野悦子「二十歳の原点」を取り上げてみたい。 同作品では、様々な場面で京都御所が登場する。主人公…

禅定寺

東海東山北陸の三道、要約すればわが国の東国地方から、もし逢坂山を越えずして(即ち京都に触れずして)奈良に達しようとすれば、どういう道があるだろうか。 東国から兵を進めて、京に入ろうとした時、瀬田川を塞がれ、逢坂山を閉じられたとするならば、ど…

円福寺

「八幡の藪知らず」という諺がある。 八幡一帯は、藪で満ちておった里である。余りに藪が多すぎて、どちらをむいても、竹藪竹藪で、その外に何物もない。そのために、この里の住人は、却って藪のあることに気がつかない、ということであろう。余りに物があり…

円通寺

中秋の夕方、鴨の河原に降り立ちて東の山辺をうち眺むれば、四方の山々みなほの黔きに山の向うにほの白き何物かが見える。まだ姿を見せぬ月影の先駆的な御光であろうか、錦糸で縫い取ったかのように、一本の細い錦布を敷き列べたかのように、東山一帯の稜線…

社寺マニアにピッタリの路

南禅寺から知恩院へ抜けるには、岡崎経由と粟田口経由の2通りある。前者は疏水の流れにそって動物園、美術館、平安神官を横目に眺めながら、神宮道を南下する。後者は南禅寺境内をインクライン下のトンネルから京津国道に出たら、華頂山北麓の山道を縫って…

睡蓮の花咲く浄瑠璃寺

つい数年前までは、堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」をたずさえた、ごく僅かな人影が、簡素な山門をくぐる程度の閑寂境なったが、最近は文字通りの〝古寺ブーム〟で、交通網も発達し、奈良からの直通バスが乗り入れているほどだ。農家の庭には、にわか仕立ての茶店…

大徳寺

日常茶飯事といわれるように、茶を飲むことは最もありふれた日常の行為であるが、日本では「茶道」と呼ばれる特異な茶の飲み方が発達して、世界にも例のない美の世界を樹立した。茶に用いる道具、それを扱う動作、室の飾り、客に茶をすすめる時、すすめられ…

光悦寺と正伝寺

徳川家康が、ある時、京都所司代板倉勝重にたずねた。「本阿弥光悦はどうしているか」「元気でおります。ちょっと変わった男で、京都にも住みあきたからどこか田舎へ行きたいなどと申しております」「それなら近江、丹波などから京都へ入る道筋で、用心が悪…

修学院離宮

豊臣家を倒して天下をわが物とした徳川家康も、征夷大将軍の地位を天皇から授与されなければ、一介の大名にすぎない。官位の授与権は天皇が握っていた。家康は、まず朝廷対策に頭を悩ました。武力を持つ者には武力で戦えばよいが、古代以来、日本の王者とし…

詩仙堂と曼殊院~江戸時代の文人趣味

宮本武蔵と吉岡一門の決闘の場で名高い一乗寺下り松から、爪先上りの道を登って行くと、道の右手に一群の竹藪があり、その下に詩仙堂の間がひっそりと開いている。竹におおわれた薄暗い道を入って行くと、現代から隔絶された別世界へと導かれる想いがする。…

大原の里

大原は京都市内を去ること約12キロ、比叡山の北西麓にある小さな盆地である。四方を山に囲まれ、中央を高野川が流れる山里で、大原の名を口にするとき、人はなぜかいちまつの哀愁を感じる。それというのも、古典文学に登場する大原は、いずれも失意の人につ…

寂光院と勝林院

平家没落の哀史を語る『平家物語』の巻末をかぎる「灌頂の巻」の女主人公は、平家一門の悲しみを一身に集めた観のある建礼門院である。 文治2年(1186)4月20日すぎ、後白河法皇は鞍馬寺に参詣するように見せて、そっと都を出た。行先は大原、建礼門院に会う…

やすらい祭と葵祭

比叡山にいた小僧が、桜の花が風に吹かれて散るのを見て、さめざめと泣いていた。それを見た僧が傍へ寄って、「なぜ泣くのか。花の散るのを見て泣きなさるのか。桜ははかないもので、このようにすぐ散ってしまうのだから、そんなに泣きなさるな」となぐさめ…

賀茂神社と糺ノ森

賀茂川と鴨川とはどう違うのかとよく質問される。現在は高野川との合流点(賀茂大橋)から上流を賀茂、下流を鴨と書き分けている。「カモ」川は古代にこの付近一帯に住んでいた加茂氏にちなんだ名前で、字の違いは、むしろ、上賀茂神社と下鴨神社の勢力争い…

深泥ガ池と宝ガ池

マネやモネといった印象派の画家たちがアトリエを捨てて、自然の中での色彩と光の刻々の変化を発見し、そして自然の真の表情をとらえたように、いわゆる古社寺と苔むした石の庭で代表される京都から一歩をふみだしてみると、平安京以前の自然を発見すること…

鞍馬と貴船

海百合、紡錘虫、珊瑚、腕足貝、巻貝は何億年か石灰岩の中にとじ込められていた。濃緑の樹林の海底で、今静かに、白く岩面から浮上して無限に遠い古生代の物語をはじめる。地質学的な思考の世界が、鞍馬と貴船にはある。 鞍馬寺の本堂の左奥への道をたどれば…

比叡山今昔

濃緑の針葉樹の道をたどる時、眼前に突如として、紅・黄・褐色の明るい光に満ちた空間が現われる。小さな正方形の入母屋造り檜皮葺の建物の周囲だけが明るく、音もなく、静かに紅葉が降っていた。そのまま足を進めたとすれば、その紅葉と枯葉の光波の世界は…

琵琶湖疏水~「哲学の道」とその周辺

「桜の花びらが流れつくすと、季節は初夏にうつってゆくのだった。若葉が眼のさめる様な新緑を、こんどは疏水にかげをおとした。秋にはそれは燃える様な紅葉にかわった」これは田宮虎彦の『琵琶湖疏水』の一節で、美しい自然と共存できない悲しい青春の物語…

知恩院から青蓮院

華頂山のふもとの知恩院から、北へ青蓮院をへて粟田口、さらに疏水ぞいの道を南禅寺に至る。石垣と楠の大木の道が山麓にそっているあたり、季節、時間をちがえても、それぞれに豊かな古都の詩情が流れている。 桜の花の4月、知恩院では開祖、法然上人の忌日…

南禅寺疏水と平安神宮

静かな都に御一新の風が吹きぬけて「千年の王城の地」としてのエリート意識は、音をたてて崩れ落ちた。明治元年7月、江戸を東京と改称、明治2年3月、天皇再度東京へ、そのまま帰らず。遷都と知った京都の人々は大声をだして泣いたという。一時は人口も急に減…

清水寺から高台寺・円山公園

東山山麓には、古都の感情を知ることのできる要素が各所にあって、どこをどう歩いても、何かにぶつかり、いずれの時代かにひきもどされることになるだろう。だが、東山の道は、歴史のある散歩道であると同時に、墓所への道であるため、深い永遠のねむりをさ…

東山三十六峰

「美しい水があり山があった。樹木の厚く繁った東山に、寺の大屋根や塔が柔かく抱かれているのを見るほかに、…」と、大仏次郎の『帰郷』の主人公、恭吾は鴨川べりの宿からの風景に京都らしさを感じる。牛車や自転車のかわりに自動車が多くなったが、東山の緑…

三十三間堂と方広寺あたり~仏の世界と秀吉の栄光

七条通りは、鴨川にかかる七条大橋から東へ次第に勾配が大きくなって、東大路で終るが、その東山七条あたりは、古いものと近代的なものとが共存している特異な場所である。古さびた土塀や石垣の中に、近代的な病院や学校が平然と存在しているのを発見すると…

東福寺と伏見稲荷~東山南麓の魅力

東福寺へ通ずる石垣と土塀のある道は、静かで古都探策の目的をもつ旅人を十分満足させてくれる。ともすれば、京都は南へ行くにしたがって、古都という言葉を失いがちであるが、東福寺あたりが古都の南限かもしれない。 檜皮葺の月下門の前から、洗玉澗という…

平等院と万福寺~極楽浄土への願い

流れ出る川がひとつしかない琵琶湖の水は、石山のあたりから山間を縫い、宇治で初めて平地にほとばしり出る。「ころは一月廿日あまりのころなれば、比良のたかね、志賀の山、むかしながらの雪も消え、谷々の氷うちとけて水は折ふしまさりたり。白浪おびただ…