京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

おんな寺

 洛北、高野川の流れを遡った若狭街道沿いの山間にひっそりと静まりかえる里―大原。寂光院はその大原の草生の里の楓葉そよぐ石段の上に、あたかも世を捨てた比丘尼のようにつつましく竹んでいる。今でこそ、訪れる人の絶えないこの里は、『平家物語』の昔、都から遠く隔った山間の僻地でしかなかった。平清盛の娘、高倉天皇の女御であった建礼門院徳子が、壇之浦の合戦で一族ことごとく滅び去った中、自ら入水したにもかかわらず助け上げられ、この寺へ身を寄せた悲話はあまりにも有名である。
 黒髪を落とし、世間の好奇の眼差しから逃れるように、この山深い里に隠棲したとき、徳子はまだ29歳の若さであった。跡を追って出家した二人の待女にかしずかれ、一族の菩提を弔う女院の念仏と読経の声が槍を渡る風の音に混って朝な夕なに仏間から流れた。
 それはときには運命を政治にもて遊ばれた女の嘆声であり、またときには子を思慕してやまない号泣であったかも知れない。移り住んでただ一度、女院の胸を騒がせたでき事が起った。後白河法皇の訪れである。後白河院は最初平家と手を結び、時節到来と見るや源氏に平家追討の命を下した張本人。女院にとっては敵ともいえる相手であった。しかし、この佗しい山里の寺で、憎しみ合うにはあまりにも二人の感慨は深く、大きすぎた。女院は年老いた法皇を前に、過ぎた日のこと、生きながら地獄と極楽を垣間見たことなどを語り、ともに涙を流した― 『平家物語』は伝えている。
 女院は建保元年(1213)、57歳で波乱に富んだ一生を終えた。寂光院には建礼門院自作の椿像(紙の張り子の像)が残されている。そして、その像は、女院の子・安徳天皇の書き捨てた反古紙で作られてある。亡き幼児のはじめて手習いした反古紙で、親の像を作った母の優しい思いやりは尼寺ならではの美しいエピソードに違いあるまい。また大原の三千院に向かう細い道の途中に実光院という簡素な庵がある。ここもまた尼寺で、枯れた離垣を通して、声明が聞こえる。

 直指庵の名が広く知られるようになったのはごく最近のことである。寺の歴史は江戸時代の初期に、黄檗宗の独照禅師がここに庵を結んだのが始まりといわれるが、その後庵主を欠いたこともあるらしい。松尾芭蕉はこの寺を訪ねた折、〝留守の間に 荒れたる神の 落葉かな〟と一句詠んでいる。
 幕末の頃、勤王の志士たちと交流のあった女傑・津崎村岡が隠棲し、88歳になるまで余生を送り、庵を保ったが、その後は住む人とてなく、狐や狸の住みかとなるほど忘れ去られ荒れ果てていた。しかし、現庵主の広瀬順尼が、15年前に住まいしてから、いつ
しかこのちいさな茅葺きの庵を訪ねて、北嵯峨野の竹林をたどる若い女性の姿が跡を絶たなくなった。
 心の開けた庵主の人柄もさることながら、「想出草」と名づけられた備え付けの大学ノートに、人に打ち明けられない悩みや、ふと心に浮かんだ詩句などを書きつけられることが、現代の若者の心を惹きつけたのであった。「想出草」は庵主のアイディアで数年前から備え付けられたもの。いまではその数も1000冊を越えるという。失恋・家出・自殺・尼さん志願…さまざまな悩みや思いを「想出草」に書きこみ、あるいは老いてなおカクシャクたる庵主に打ち明け、さっばりした顔つきで帰る若者たちの姿が、いつしかこの寺に「泣き込み寺」という別名を与えることになった。
 「泣き込み寺」は現代の中に甦った尼寺といえそうである。
 直指庵のある北嵯峨は、また昔ながらの嵯峨野の自然が最もよく残されているところでもある。南北朝時代後宇多上皇によって院政がとられた大覚寺を中心に、大沢の池、広沢の池がさながら兄弟のように並びひなびた石仏群が時代の流れを忘れたかのように佇んでいる。なんの飾り気もない嵯峨天皇陵、そのゆるやかな丘陵を登れば、遠く京の町並が需にかすんで見える。この地をこよなく愛した嵯峨天皇にちなんで、嵯峨野の地名が生まれたといわれるが、帝はまた大覚寺離宮を造営されたこともある。桜や紅葉が四季折り折りの彩りを野辺にそえる中で、宮びとたちは大沢の池に舟を浮かべ、観月の宴を催したり、車座になって楽を奏で、詩歌を詠み嵯峨野の風雅を満喫した。
 嵯峨野の美しさは竹の美しさにある。直指庵の境内には小柴垣の向こうに青々とした孟宗竹が生い茂り、その美しさは嵯峨野一といわれている。

 華やかな都びとの生活も、一装を返せばただ空しく費え去る一時の夢に過ぎない。それに気づいて都を去った悟りびとたちの隠棲の庵がそこここに残る嵯峨野。奥嵯峨の祗王寺もそのひとつ。ここに移り住んだ世捨て人が、若く美しい白拍子であったことが、今も京都を訪れる多くの人びとの足をこの藁葺きの小寺へ向かわせるゆえんである。平清盛の寵愛を受けた舞の名手白拍子の祗王。しかしある日、突然、館に現われて、清盛の前で今様を舞ったうら若き白拍子・仏御前にその愛を奪われてしまう。そればかりか、逆に仏御前の病いを慰めるために、その前で舞うことをすら命ぜられる女の哀しみ― 。
 「仏も昔は凡夫なり、我等も遂には仏なり、何れも仏性倶せる身を、隔つるのみこそ悲しけれ…」と唄い舞うのが、裏切った男へのせめてもの抵抗であった。21歳の祗王はそのまま尼となり、母と妹・祗女とともに、奥嵯峨の往生院(祗王寺)に庵を結んで、生ける屍となって念仏三味に明け暮れる。秋風のたったある日、庵の戸をたたく音がして、髪をおろした仏御前の姿が二人の前に立った。「萌え出るも枯るるも同じ野辺の草 何れか秋に逢はで果つべき」と祗王が書き残した歌に胸を打たれ、浮雲のようにはかない一時の栄華を捨てての出家の姿であつた。
 仏御前はこの時、わずか16歳。その後は四人揃って草庵にこもり、やがて極楽往生の本懐を遂げたと『平家物語』は語る。うたかたの川の流れに浮いては沈み、沈んでは浮く桜の花びらのようにはかない古典の中の女たちの物語が草むした孤庵に一層の哀れを誘っている。
 時代の流れに朽ち呆てたこの尼寺を、今日の姿に保たせたのは現庵主・智照尼の尽力によるもの。今年81歳の智照尼はその昔、東京・新橋の名妓とうたわれ波乱に富んだ半生ののち得度して、昭和11年祗王寺の庵主となった。
 木立の多く、なめらかな緑の苔に覆われたちいさな庭を、春は散り桜が、秋には落葉が埋め尽くす。せせらぎの音、竹の葉のそよぎ― 嵯峨野の自然が凝縮されたかのようなその庵の庭は、古典の哀話にふさわしい風情を漂わせている。
 祗王寺からほど近い厭離庵もまた、ささやかな尼寺である。人ふたりがやっと並んで通れるほどの柴垣の小径の奥に佇むちいさな門。そこから先へは入ることが禁じられた尼僧の城。ここは鎌倉前期の代表的歌人藤原定家ゆかりの庵でもある。
 厭離庵の北には先年、得度された作家・瀬戸内寂聴尼が寂庵と称する庵を結ばれている。嵯峨野は昔も今も、女人の激しい情念によって哀しく、また美しく彩られているのである。