京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

禅定寺

 東海東山北陸の三道、要約すればわが国の東国地方から、もし逢坂山を越えずして(即ち京都に触れずして)奈良に達しようとすれば、どういう道があるだろうか。
 東国から兵を進めて、京に入ろうとした時、瀬田川を塞がれ、逢坂山を閉じられたとするならば、どうすべきか。洛南に兵を廻すのにどうした迂路があるか。
 この二つの問題を解決するのが宇給田原越である。
 滋賀県甲賀郡信楽や水口から田上山の北を通り大石町に出て瀬田川を渡ると、川の右岸に沿うた石山や南郷から南下した道に出る。それから曽東に到り、裏山を越えて醍醐山に出る道と合流する。そこを更に川と離れて西に向えば、宇治田原越になる。峠をすぎれば宇治にも近いし、南下して青谷や井出から奈良に向うことが出来るし、西向して田辺か八幡枚方にも出ることが出来るのである。
 瀬田逢坂を塞がれた時に南山城から奈良への脇道であるが、それだけに軍事上の要路である。
 その峠の中間にあるのが禅定寺で、この峠を一名禅定寺越とも言う。
 古くは壬申乱(39代弘文天皇元年―672)に大海人皇子(後の40代天武天皇)が東行されたとき通過されたとの説もあり、源平合戦のとき、関東からの源軍は、ここを越えて宇治に迫り、河を渡らんとした梶原景時佐々木高綱宇治川先陣争いの場面も、展開したのであった。
 承久乱(1221)には北條泰時が、建武2年(1335)の年末には足利尊氏は東国から軍を率いてこの峠を越え、洛南から京都を窺っておる。近世では、本能寺変のあった時、天正10年(1582)堺にあった徳川家康は、河内から宇治田原に出て、この峠を通って信楽に帰路を求め、三河に無事に帰っておる。
 案外な要路であるが、案外に軽視されており、そこを扼する禅定寺は、それ故に案外に政治的軍事的の要塞であるのに、案外に知られていなかった。初めて訪れたのは大正15年であったが、宇治からここまで約8キロ、徒歩による外なく、通る人は一人もなかった。吉川英治氏が『鳴門悲帖』で、お綱をこの道から走らせたほどの寒村であった。
 禅定寺も荒れ果てて座敷の畳は穴で一杯。僅かに一室だけ、どうにか坐れるように和尚が工夫してくれて、4、5泊が、やっとのことであった。驚くべき多数の禅定寺文書を見出したおかげで、わびしい山寺の淋しさを感じなかった。

 禅定寺の開基は残念ながら不詳である。判ったところだけを記してみよう。
 東大寺別当に平崇という名僧があった。顕密の碩学で、明徳知行兼備の清侶、常に阿字を観じ、毎時、その口から金色の光が出たほどの人であったが、別当に補せられて以来、この光が隠失した。それを慨いた平崇は別当を辞し、懺悔のために私領を献じ一寺を建立。十一面観世音菩薩像を安置して本尊とした。66代一條天皇正暦2年(991)のことで、これが本寺の創潮であるとする寺伝を、古くから寺では持っておる。それについて少し理屈を言うと、平崇が東大寺別当に在職したのは正暦5年(994)から長徳4年(998)であるから、上述の由緒は年代的には合致せぬが、それ以上は、どうにもならない。
 尓来平崇はここに隠棲して修禅に専行したが、長保3年(1001)4月8日田畠を本寺に施入(その施入状、現存する。旧国宝)して後顧の患なからしめる用意を果し、翌年10月7日77歳にして示寂。後山に葬った。
 その資弟子利原上人また法徳熾んにして、よく先師の聖業を守り、先師の時に使用した三石の湯釜を五石二斗の大湯釜に改め、大湯屋を修理し、遠近より来り沐するものの数が殖えることをもって、一に先師に対する供養であるとした。
 その時の寺地は、今より少し奥の西北に当り、桑在郷というところであった。安政年間までその旧址に桑在寺という小寺があった。
 現在のは中興開山月舟卍山和尚の建てる所である。月舟は黄栄の隠元と相並びて、近世当初の有名な禅僧で、加賀国家老大聖寺の本多阿波守政長の出資によったものである。

 それがどうして関白家の所領になるのであろうか。
 東大寺の僧奝然(嵯峨の清涼寺釈迦像を将来した人)が宋から帰朝するや、その将来した文殊菩薩像を摂政東三條殿兼家に寄進した。兼家即ち文殊堂を建立してこれを安置し、宇治田原の住人を撰んで、その香寄人に任じた。その年代に関しては寺伝に少しく不審なところがあるも、天元年間(978~82)のことであったという。
 その文殊堂は禅定寺にあったものではあるまいと思うが、恐らく平崇の頃に、平崇から寺領寄進をうけた禅定寺の方で、その時代の風習に従って寺院並びに寺領を共に摂政兼家に献じてその本所と仰ぎ、寺院寺領の安全策を講じたものであろう。
 かくして宇治田原は東三條兼家からその子の御堂関白道長に、更に頼通に伝わった時、頼通が宇治に平等院を建てたので、宇治田原もその政所の支配下に加えられつつ、頼通から師実、師通を経て知足院関白忠実に伝領された。
 忠実は富家殿関自とも言われた人で、その文字通り、巨額なる所領を所有した大勢力家であった。禅定寺関白とも呼ばれることから推して、忠実は禅定寺に対して非常なる配慮を加え、寺観を完備全整したのではなかったか。
 次にその子法性寺関白忠通、六條関白基実と渡り、ついで普賢寺関白基通と、次第を経て近衛家の所領中にその名を記入される光栄を有した。
 その隣邑であった曽東庄が九條家の所領であったために、今後、常に曽束庄人から脅かされ、境界争を永々と繰り返す運命に見舞われるのであるが、そのことは本稿の埓外に置くこととする。

 禅定寺の創立が上述のように輝かしいものであったとすれば、禅定寺の今後は果してどうなるのだろうか、心配の種になる。ということは、言い改めると、そのようにその出発点を堂々と踏み出した寺院の経営は、将来、安易なことであろうか、それとも本所として侍む近衛家の浮沈に左右されるであろうか。もちろん近衛家のように日本第一の権勢家のことであるから、心配は要らぬかも知れないが、事実は却って、安心のならぬ場合がある。
 元来、宇治田原という土地柄を考えると、奥山の中の僅かに開けた狭い山峡の土地であり、あり余るほどの収穫のある肥沃地でもない。現に当今でも住民は山肌を開いて茶圃の経営に努めておるのであるし、山間地特有の冷気を利用して、柿を植え、干柿(古老柿)を作ることによって、生計を豊かにしておるのである。晩秋に宇治田原に足を入れると、いわゆる柿紅葉の余りの美しさに胆を奪われるのである。
 されば、山林を以てその最大の資源としておる当山においては中古以来、山司職を置いて山林保護に全力を致したのであった。例えば92代伏見天皇の永仁4年(1296)12月日の「寺山禁制」を見ても桧椙類から松椎の類まで、伐採に細かな禁制を設けて、村人は言うも更なり、寺の住侶等までもの盗伐を厳しく戒めておるほどである。
 それでもとうとう〝時〟の女神には勝てない。時間とともに頽運に向い、月舟卍山和尚によりて、やっと型ばかりが残ったのである。
 それは、本寺だけの歩いた道ではない、殆どの寺、と言わず、旧勢力のすべてが、たどらなければならなかった歴史の惨虐である。歴史はあらゆるものを変化さしてしまう。よくもあしくも。

 本尊十一面観世音菩薩の外躯堂々たる巨像。法量九尺四寸。このような雄作が、宇治田原の山奥にあるとは誰が予想し得たろうか。
 貞観佛の俤はなお僅かに残存しておるが、少し緊張感が足りない。と言っても藤原式の円満豊肥さではない。形式化されていない。充分に個性が含まれておる。本寺創立の正暦のものと見るべきであり、下半身の、両脚が衣文から透けて見える軟かさは、佛師定朝の出るまでの作風である。定朝を育てたであろう師匠の神技霊腕である。
 光背が後補であるので、それに見誤られて本尊の秀麗さを見落すかも知れないが、1、2時間、徐かに対面しておると、「定にこれは佛様だな」と心中から湧き出る宗教心を認めるであろう。
 その脇にある文殊騎獅像また同時代のもので、後補の獅子を除けて拝むと、何とも言えぬ清楚さに、シビレル思いがする。
 これほど怜智端正温雅な面相があるものか。これほど整うた目鼻があるものか。唇が少し強すぎるかにも見えるが、これも文殊菩薩の内心の充実を示す標識であろう。
 もし人間の顔が、これほど端正であったなら、人生は淋しいものになるであろう。悲哀なものになるであろう。人相には不揃があり、不整があり、欠隙があるから、人の世は温かいのである。人の世に発展進歩があり、精進があるのである。もし人世が完全なものならば、それはもう極楽世界と同格になったことで、人間界を外れたものであろう。
 別室に安置する四天王は、重厚な上に典雅で、藤原時代の作風を充分に認めることが出来るが、よく見ると四軀一組の四天王ではない。多聞天だけは別組のものである。革鐙の臑当も三軀はやや楕円であるが一軀は円い。胸当も外にふくらんだ曲線であるが、一軀は内に切り込んである。
 その初めからこうした相違を意識して作ったのではなく、別々の二組の四天王が偶然、この四軀一組にされたものであろう。
 先々住が言っておった。明治初年の排佛毀釈のとき、この四天王以下多くの佛像を井戸ばたへ持って行ってゴシゴシと洗い、金箔を剥がし、色彩を流し落し、佛像ではない、本片だ、と言って焼却される難を免れたのであったそうで、この四天王もその罹災者の仲間であったらしい。しかし、今は四軀一体となって、仲よく佛界を狙う悪魔を追い退けんと、怒号挙拳を怠らない、責任感の強い天部である。「たのみます」と言って礼拝したい。
 もう一体見るべきものがある。地蔵菩薩の半珈像であるが、本像はもとここより西二町にあった地蔵渓の地蔵堂の本尊であった。
 左足をおろした延命地蔵で、藤原時代の作であろうと認定されておる。

 本堂前の空地や本堂の横、後背の畑に、もろもろの花草を植えておる和尚の心は、実にゆかしいものではないか。それは本尊以下の供華にするための用意であるかも知れないが、山寺の和尚は、恐らく語るに相手のない毎朝毎夕を、咲き初める花に語り、咲き揃うた花に喜び、萎み行く花弁に心を痛めておったのであろう。
 そうでないかも知れない。邪心に満ちた人間と語らい暮すよりも、無心の草本と交わることの潔さに法悦境を見出したのではないか。
 そのような和尚を羨しいと思う。

 幾十度禅定寺に来たか。その度毎に和尚は必ず前夜に心をこめて焼いたカキモチを食べさせて下さった。
 佛様よりこのカキモチを有り難く思うて参山したかも知れない私に、本尊は少しも罰を当てられなかった。やはり佛様はありがたいものであると信ずる。