京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

円通寺

 中秋の夕方、鴨の河原に降り立ちて東の山辺をうち眺むれば、四方の山々みなほの黔きに山の向うにほの白き何物かが見える。まだ姿を見せぬ月影の先駆的な御光であろうか、錦糸で縫い取ったかのように、一本の細い錦布を敷き列べたかのように、東山一帯の稜線を染めなせるかと見る間に、刻々に色増し、やがて一瞬、十三夜の月は山の向うから推し挙げられた。山端に額を出す。その静粛さ、その荘厳さ。その天彩の豊かさ。
 東山から昇る月の光は、来迎阿弥陀如来衆生を引接される時の御光のように、神々しいまでの神秘である。
 もし叡岳の向うから静かに昇る月光を、その神々しさを、思う存分、思う心の幾倍かに、拝み眺めることの出来るところが、あるものならば、一度は行ってみたいと念じた。それがあった。岩倉幡枝(はなえだ)の円通寺である。
 そのような金剛界が現世にあるとは。
 洛北から鞍馬街道を北に進む。松ケ崎の妙法〝山〟というほどでもない標高76mの丘稜を越えると、漫々と水を湛える深泥ケ池に出る。右手、池に沿うて北行すると、木野から岩倉に達する。池の口で左手に取ると、100mほど急坂がある。越えた所が、幡枝という狭い平地であり、それを更に進むと、二軒茶屋から鞍馬に達する。
 もし電車を利用するならば、京福電鉄の「出町柳」から鞍馬行に乗れば「木野」の駅で下車。南行3、400m。そこに大悲山円通寺がある。
 後水尾天皇寛永6年(1629)11月8日俄かに御退位になった。女帝明正天皇の御宇が始った。天皇の御母は東福門院和子であり、徳川二代将軍秀忠の女である。奈良時代から久しく後を絶った女帝の即位をみた。この裏面に、江戸幕府の威風が吹いたであろうことは、言うまでもない。それに対して後水尾上皇は、御不満であったらしい。幕府の身勝手を嬉しくは思召されなかったかも知れない。
 上皇は、いろいろの意味においての「憂さ」を払除しよう、忘れ去ろうとせられ、その一方便として、離宮の造営を志された。
 寛永18年7月の頃から、使者を四方に出して離宮造営の候補地を物色し初められた。上皇側近者の一人であった北山鹿苑寺の住持鳳林承章(『隔萱記』という日記がある。近年出版された)のところにも人を派し衣笠山の方面、金閣の近隣に、それを求めしめられたが、恰適の場所がなかった。正保から慶安の頃になると、方面を変えて、東山叡山麓方面に求められた。高野川から岩倉山の一帯に恰好の土地を探索せしめられた。岩倉村の中に長谷殿(ながたにどの)岩倉殿といわれる御茶屋を設けて、一応の足溜りとして、それから周辺の景勝地を巡覧された。長谷殿へは正保4年(1647)10月6日、岩倉殿へは5年2月21日が、最初の御幸であった。それについで幡枝方面へは慶安2年(1649)9月13日玉歩を初めて印せられた。
 この日晴天にして暖気春三月のようであった。長谷殿へ御幸の帰途、幡枝へ御立寄り、名月観賞の御会を催された。山の中腹にある御茶屋へ登られ、そこで供奉の公卿達と御物語があり、この土地が頗る御意に叶うたらしい。明暦3年(1657)3月22日にも上皇東福門院御同伴でここに御幸。一夜御逗留。翌日鹿苑寺の承章以下をお召しになり、上の御茶屋において御茶会を催され、ついで古御殿におりて御少憩になった。この時の座敷には御掛物、御花の飾物があり、その上御菓子の御馳走まであった。青天白日の御清遊で御機嫌斜めならずと『隔蓂記』は記しておる。
 この記事によると、上御茶屋へは山路を登らねばならなかった。それから推せば、中御茶屋、下御茶屋もあったらしい。あちこちに散置した御茶屋があったと見るべきで、その先蹤は鹿苑寺金閣のある寺)慈照寺銀閣のある寺)にあるかも知れないが、宮廷の庭園としては新しい型式であった。後水尾上皇の御発案かも知れないが、これがやがて現われる桂離宮、特についで造営される修学院離宮の、先行者的な役割を持ったであろうことは、当然である。
 古御殿とはどのような由来のあるものか、まだ判らない。
 幡枝御殿は、殊に山上の御茶屋は、余程御意に適うたと見え、慶安から明暦に、しばしば御幸があった。四季折々の月花の御遊で賑やかに風雅の道を尽くされたのであった。さもあろうと思う。そのときの御茶屋からの眺望は、今日も昔のままであろうか。
 明暦元年(1655)3月13日上皇は修学院村にあった円照寺尼公の伴松軒を訪れた。その地形、その山川風物は、痛く御意に入った。それ以上尼公に対する上皇の御意に、極めて懇切至情的なものが溢れた。
 実は後水尾天皇東福門院中宮に迎えられる前に四辻大納言公遠の女「御与津御料人」との間にもうけられた一皇女があった。東福門院入内のとき、江戸幕府の方で、それを探知して、それを口実に、邪魔を入れたことがあった。天皇の御母中和門院(近衛前久の女)は、「さることはあらじ」とてこの皇女を隠し、御与津御料人のことは抹消されて、事が納まった。この皇女はその後に鷹司関白教平の許に嫁がせられたが、幕府の青い眼白い眼はとうとう鷹司家からも追出してしまって、林丘寺にお預けした、という悲劇があった。それが円照寺尼公文智女王である。尼公は天皇の爪先を蒐めてそれで「南無阿弥陀佛」の名号を描き、父上皇の冥福を祈られたこともある(やや後のことであるが)ほど、上皇との間に至情の暖かき親しみを持っておられた。上皇またこの尼公をいとしく思召して、一しおの御親愛があった。
 円照寺御幸御訪問。それについでこの土地に修学院離宮が卜定せられるに到るのは、こうした裏面の事情が強く作用したのではなかろうか。
 となると修学院離宮の先輩として、幡枝殿は大きな意義がある。修学院離宮後水尾上皇の宸慮をつくされて完成したものであるためと、上皇の御高齢とのために、幡枝御殿の御利用は、年と共に消え去った。とうとう寛文12年(1672)8月、御殿を残して、幡枝の山と山の御茶屋等が、近衛家に下賜されることとなった。近衛基熙の時である。
 幡枝御殿はやがて円通寺という寺になるのであるが、それには、次のような歴史がある。
 後水尾上皇の思召は幡枝御殿のあとを、佛天に喜捨して皇室の御祈祷所たらしめんと遊ばしたらしい。嵯峨天皇離宮が旧嵯峨御所として大覚寺となり、寺院となったおかげで連綿千年になんなんとする法脈が、栄えた故事に倣わんずる御意であった。上皇の帰依された近江国日野にある正明寺の開山龍渓和尚に附与し禅苑としよう御素意で、天寿山資福禅寺の勅額を御揮宅になった。寛文6年(1666)3月勅額は正明寺に移され、勅使の御差遣まであった。然るに新しく禅苑を開創することは幕府の拒むところとなったので、折角の勅額も、正明寺に下附されたのであったけれども改めて林丘寺の宝庫に格納され、他日正明寺に渡された。
 龍渓は黄檗山に隠元が来たとき、何かと周旋の労を取り、万福寺の創立に力を尽くした禅僧である。正明寺の勅額が「資福禅寺」であることから推して、この「福」の字は万福寺の福と無関係ではなかろうか。中国にあっては福寿を以て人生至極最後の念願とする。天寿の山号といい、資福の寺号といい、中国の思想がありありと見えるではないか。
 詩仙堂の座敷にも丈山筆「福禄」の軸があった。福寿の二字に表わされる理想こそ上皇の至念が何であったろうかを思わしめはせぬか。上皇の世寿は御八十五。その時代としては定に稀有の御長寿でなった。
 後水尾上皇の皇子である霊元天皇の乳母は贈左大臣園基任の第二女で、後光明天皇の御母壬生院の姉、霊元天皇の御母新広義門院の叔母君に当る婦人であった。この乳母は霊元天皇御幼少の頃は、後水尾上皇の御母中和門院に属従したこともあったが、後半世ここに隠遁し文英と法名した。改めて霊元天皇の御乳母として長く奉仕したのであった。
 その隠棲地が幡枝であった。
 幡枝御殿はその縁故で、この地を卜されたのであった。
 修学院離宮東福門院の建物が移建されたと同じ頃延宝6年(1678)4月、御所の御建物の一部が幡枝にも移されて佛堂となった。改めて円光院文英尼を開基とした。それが現在の御殿である。佛堂に隠元筆の扁額が掲げてある。大悲山円通寺は、かくして成立。山号寺号ともに後水尾上皇の宸翰があり、扁額として現存する。
 延宝8年(1680)8月後水尾上皇登遐。ついで文英尼も病床に親しむこととなった。霊元天皇いたく本寺の将来に御珍念あり、御内弩中から当分の間年々30石を下賜されることになった。
 そのときの宸翰を嘗て拝したことがあった。御こまごまとしたお心遣のほど畏いことと存じた。次に掲げて見る。濁点は私に附した。
 「大悲山円通寺の事は、とし頃のねがひをとげられ候て、建立の地に候へば、末代までもつゝがなく候へかしと、おもひ候事に候。ことさらに、この菩薩は、度々の霊験もあらたなる事にて、自余に混ぜざる子細も御入候上に、故院勅額をも給候事に候へば、長く祈願所にさだめ候事にて候、此寺の事は、子孫にいたりさぶろとも、おろそかになるまじく候まゝ、すヘゞまでも、心やすかるべく候
 延宝8年10月26日(御花押)
 円通禅尼へ」
別に一通「ゑん光院」に宛てた長橋局の女房文があって、その中に「…寺領もこぬうちは、僧侶のすまゐもなりかたく候よふにおぼしめし候まゝ少しの事にては候へ共、寺領もととのひ候までは、御内しょうより、三十石づゝくだされ候事にて候。…性通も、ゑんつうじの事、万心にいれ候て御よろこび候より、日とひ御申あげ候て、きこしめされ、きどくなる事とおぼしめし候、ゑん光御後にも、寺のためいよゝそりゃくなきように、よくゝ申きかされ候べくも…」とあって、寺の行末までに、御意を注がれておることが推知せられる。
 霊元天皇東山天皇に御譲位後、法皇として、佛門帰依の日を送られたが、円通寺の一角に潮音堂という一堂を構造し、観世音菩薩を本尊とされた。正徳元年(1711)10月松木前大納言は霊元法皇の思召を体して、数ケ条の覚書を交附した。その中に円通寺の永代修理その他の費用に宛てるために、白銀300枚を妙心寺に預けておいたから、その利銀をもって、本寺のために使用すべき事を命じた一項もある。なかなかに進んだ新しい資金運営法があったことに感心する。ともかく本寺の立ち行くように末々までも思念されたことが知られる。恭い思召に感泣したのは円通寺だけではあるまい。その利銀使用に立合うべき数名の人が指定されてあるが、その中にさきに出ておった性通の名も見える。
 霊元法皇の幡枝御幸は、享保15年(1730)4月12日に実現した。御即位の以前、法皇が此の地を去られた寛文元年から69年目のことである。それ迄に幾度か行幸御幸の思召は漏らされたが、幕府の意向もあって、どうしても実現しなかった。今や、漸くにして其の日を迎えた。御幼少の時の思出が70年という月日を扶んで、どの程度に幡枝御殿の内外に残存しておったろうか。
 潮音堂の本尊に御三拝。普門品を謹誦された後、御親筆の『般若心経』を宝前に納められた。
 七十(なゝそち)の一とせたらぬ昔わが、みし此寺を、今もとひきて
の玉詠があった。
 山内を御遊歩の後、東御茶屋(現存せず)で供奉の人たちと乾飯を召され、探題の和歌詠進の御興があった。初夏のうららかさに、田園の風物と相映えて、まことに清く美しき御一日であった。
 以上、ながながと円通寺の歴史を物語ったのは、わけがある。円通寺の由緒は模糊として明らかでなかった。先年工学博士森蘊氏が詳しく研究され、「円通寺について」を発表されたのでそのおかげで、充分なことが教えられたから、森氏の学恩に御礼をいいたかったからである。諒とせられよ。
 さて、円通寺へ来たのは、後水尾上皇霊元上皇を中心にする寺の歴史に興味があったからのことではなかった、はずである。
 東山三十六峰から昇る旭や夕日ではなくして、叡岳を踏み台にして沖天にさしかかる陽の男神、陰の女神の神々しさを拝みたかったからである。朝日や夕月と、比叡の霊峰、との組合せによって、どのような神秘さを醸し出すかを、教えられたかったからである。今宵の十三夜が、どのような月光を、この寺に、この庭に注ぐかを、心待ちに待とうためである。
 それ迄に、まだ時間がある。寺の客殿に坐って、お庭を拝見しよう。
 名高い円通寺の庭は決して広くはない。その狭い庭を広宏としたものに思わすのは、巧みな借景の技法の魔力である。庭の前面にある美しいが低い生垣を越して、向うに見ゆる比叡山は、恰も左右に衣の袖をゆるやかに流し泰然と坐った神仙にも見える。叡岳をこの庭の遠景と言うべきか、山の屏風というベきか、借景の極致であろう。
 縁側の限られたる空間を占める苔庭が狭いのか、広いのか。生垣で遠景と近景とが一応のところでは限られてあるのが、観点を変えると軒下まで迫った松苔が、そのまま生垣を越えて、民家の屋根を飛んで、叡山の山肌まで連々とつづくやにも見える。大海原の波の静けさである。
 雄大とか壮一麗とか言った形容詞ではとても表現し得ぬ天地である。正面に響ゆるは三千衆徒の屯う比叡山であるが、その向うは、月輪の棲家であろう。日輪の憩い所であろう。柄爛たる日輪よ。48,000の聖鳥に護られて天に沖せよ。冷澄たる月輪よ。84,000の玉兎を従えて、空に舞え。慈悲の妙大雲は恐らく甘露の法雨を満いでくれるであろう。
 ふと気附くと前庭の左方に洗々とした白石が、青苔の間に脈を打っておる。青海原の白い波頭であろうか。潮音堂から流れる誦経梵音に和して、妙音観世音の弘誓を暗示するものであろうか。
 人倫を絶した妙佳の庭。それを眺める座敷がいささか高い。庭面との距離が大きい。それをも気附いておる人が少いほど、渾然として円通寺の庭の精神を、胸に抱いて帰ろう。はればれとしたさわやかさが心の隅々にまで流動する。
 円通寺の庭を拝見する毎に、実は、私の心は暗うなる。言うまでもなくこの絶妙景観を、どうすれば破壊せずして千古─とまでは言えないにしても―100年の後まで伝え得るであろうか、の希望と困憊とである。
 何とかして、一人でも多くの人に見てもらって、このような絶美が人の世に在ることに感謝してほしいと念ずる一面、心なき来観者の不作法不調法の態度のために、浄域が穢されて行くであろう心配である。古庭園観賞が何の意義を有するものかを、知りもせず、考えもせず、ただ世間の手前で見に来ておるのだろうと推定される人が、今日もなおおった。このような来観者に接して、和尚の心は乱れるであろう。見せたくない、見てほしくない、と思いはせぬだろうか。
 それを見せる事が宗教心であろうか。拒むことが佛心であろうか。思えば、この案内記は佛罰ものであろう。