京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

円福寺

 「八幡の藪知らず」という諺がある。
 八幡一帯は、藪で満ちておった里である。余りに藪が多すぎて、どちらをむいても、竹藪竹藪で、その外に何物もない。そのために、この里の住人は、却って藪のあることに気がつかない、ということであろう。余りに物がありすぎると、却って、それのありがたみを感じない、という教訓ではなかろうか。
 それほどに多かった八幡の藪も、いまは僅かに円福寺への道に見られるだけで、これもやがて消えてしまうのではないか。
 竹藪の向うの、奥の奥の寺。如何にも禅寺らしいすがすがしい気分で、俗人の心は洗い清められる。都会人の耳には聞えないような藪かげの虫の音も、さやかである。
 「禅」というものは、必ずしもお寺だけにあるものではない。禅の道場とは必ずしも座禅堂でなければならぬというわけはない。円福寺に到る道の、だらだら上りの藪沿いの小道こそ、真の禅道場であろう。私の好きな道の一つ。
 数年前のことであった。美濃の伊深へ行った時、その途中で托鉢修行の禅僧群に逢うた。その時の感激と歓喜と感心とは今も消え去らない。15、6人はおったろうか。一列縦隊に並んだ修行僧が、菅笠、脚絆、紺衣に整然と身を装い、首から頭陀袋をかけ、オーオーと隻手を挙げて歩いておる様子には、改めて心を打たれた。修行僧は、何も考えてないのであろう。自分達の歩いておることさえ、忘れておるのだろう。オーオーと声を出しておることさえ気がついていないだろう。行列の仲間があることも、意識していないのだろう。ことによると自分の存在も念慮にはないかも知れぬ。無心にオーオーと叫んでおる声は、〝無〟の中から声を出しておるのではなくして、〝無〟の中に声を収めようとしておるのであろう。だが果して〝無〟の中に収められるだろうか。一つの大きな公案であろう。
 托鉢禅僧の一列は、京都でも見られたが、いまはもう殆ど見られない、と書いておるいま、思いがけなくも私の門前にオーを聞いた。相国寺の禅僧であろうか。珍しい一瞬であった。托鉢禅僧姿の俳味は淡々たる渋味である。
 それが、円福寺への道で、遇うことが出来るかも知れぬという私の慾であった。
 近世禅界の興隆の一翼は自隠禅師(貞享2年~明和5年)であった。その門下に遂翁、東嶺、提州、斯経のいわゆる四天王がおった。
 円福寺を創立したのはその斯経である。
 臨済宗妙心寺塔頭海福院に修行しつつあった斯経は、大応国師南浦紹明)、大燈国師大徳寺開山)、関山国師妙心寺の開山慧玄)―禅宗で言う応燈関の法恩にむくい、応燈関の3道場を開こうと苦心したが、思うに任せず、黙々としてすごした。後年大阪の外護者が出来たおかげで、八幡にあった天台宗の廃寺を手に入れ、そこを修禅の道場とした。それが今訪ねんとする円福寺である。斯経がこの素懐を果したのは光格天皇天明4年(1784))のことであった。この道場は臨済宗に限らず曹洞、雲門、潟仰、法眼の四宗にも開放し、他山他派の区別を撤廃することを目的とした。まことに時代の要求に適応したものとして〝江湖禅〟とも言われる道場である。
 達磨堂には本像座像、法量2尺7寸3分、寄木造、彩色、玉眼嵌入、頭から法衣を纏い、両手を膝に重ねた座禅三味の大達磨像がある。
 聖徳太子の御作と称する。随分思い切って吹いたものだと感心する。法螺もこの位に吹くと御愛嬌になる。両肩からかるやかに流れる衣文の動き、肥満した肉体の豊かさ、打ち広げた胸、肩や膝の円味が衣文を通して窺える点、すべて鎌倉時代特有の写実的である。もと大和国、王寺にある達磨寺のものであった。寛正年間(1460~5)八幡宮祠官田中氏の邸に移されておったのを、文化4年(1807)当時の住職海門和尚が田中氏の寄進をうけて、本寺に安置したものである。
 達磨大師の像は南宋以来盛んに作られた。その親しみある姿が、わが国の凡俗にも好まれたので、室町初期以来、絵画や彫刻に相当の遺品が見られる。本像はその中でも、最も古く且つ最も傑出した作品である。少しくしかめた眉、大きく見開いた眼光、わずかに閉じた口。如何にも自然であって、しかもその内面に法力の充満した強さがある。この達磨像に会うと何となく嬉しくなって来る。何となく、一緒に坐ってみたくなる。
 本寺には珍しい国宝がある。大般若経六百巻である。多少の後補本もあるが、五百数十巻立派な天平経である。巻首に「薬師寺」の朱印が2個、その下に「坂原庄長尾宮」の黒印が1個。その裏に「薬師寺金堂」の黒印がまた1個あり、紙継目の裏には本版にせる花押が2個押してある。
 南都薬師寺の旧蔵が永正年間(1504~20)大和国添上郡坂原庄の長尾宮に寄進せられ、徳川時代になって大和多武峰談山神社の有に帰し、万治、元禄、嘉永の各時代に修理され、多武峰の社宝として誇りの種であった。
 ところが明治の排佛毀釈に遇うて多武峰から排除され、昭和7年当寺の寺宝になった。宝庫に深く納まっておるが、天平経が、かくも多数、保存されておることは、感謝されるべきである。
 本寺の南数町、山中を行くと「洞ケ峠」に出る。天王山合戦のとき大和の豪族筒井順慶がここまで兵を進め、豊臣秀吉明智光秀との勝敗を傍観し、去就を明かに示さなかった地点として有名な所である。「日和見順慶」「洞ケ峠」という特別な用語が出来た旧蹟である。
 天正10年(1582)6月2日本能寺に主君信長を朴した光秀は、毛利攻伐から軍を返すであろう秀吉を山崎天王山に防いだ。6月13日に合戦があった。
 明智光秀は名将であり智将であった。大和の筒井順慶に手をさしのべておくことを忘れなかった。同時に、秀吉とても、南都を押えておく必要は知っておった。順慶にしても、両雄の勝敗を軽視はしていない。戦勝の針は秀吉の方に動いておる、と早くも見て取った順慶からは、急使が秀吉の方に出された証拠がある。6月10日光秀の使者藤田伝五が筒井城に来たが、順慶の心はもうその時には光秀には傾かなかった。
 だから順慶は洞ケ峠で日和見をしておったのではなく、天王山に敗れたならば南都の方に逃げるであろう光秀を、そうはさせじと、その行く手を阻む役目を帯びたものであった。
 果して光秀は天王山で不利になったから、南方に退き、奈良から生駒山の東麓に廻り私市を経て、枚方に軍を進め、秀吉の背後を突かんとしたのであった。それ故に山崎から南行し、淀河を越えたが、何を思うたか急に方向を変じて醍醐から山科に出ようとして、小栗栖で殺されてしまったのである。光秀の南都入りを阻止すべく順慶が兵を構えておったからであったかも知れぬ。
 洞ケ峠の真相は如上の通りである。日和見順慶では戦国時代のきびしい波涛は乗り切れまい。
 成長株を早く見極めて、それに投資するほどの機敏さを持つ筒井氏は、室町時代以来、大和で、もまれにもまれた大和六党の随一であった。