京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

大徳寺

 日常茶飯事といわれるように、茶を飲むことは最もありふれた日常の行為であるが、日本では「茶道」と呼ばれる特異な茶の飲み方が発達して、世界にも例のない美の世界を樹立した。茶に用いる道具、それを扱う動作、室の飾り、客に茶をすすめる時、すすめられた時どうするかなどが、一種の礼式化して、「茶」は「道」としての精神的な深まりを持つようになった。また、道具ひとつ、飾りひとつにも、何を美しいと考えるかという美の規準が必要となり、新たな美を生み出したのである。

 千利休朝顔の花が美しく咲いたからと、秀吉を茶に招いた。秀吉は喜んで早朝訪れて見ると、たくさんあるはずの朝顔はひとつもない。これはどうしたことかと半ば立腹しつつ茶室に入ると、床の間にたった一輪、朝顔が生けてあった。その美しさに、さすがの秀吉も思わず息をのんだという話がある。茶をたてるということは、美の演出家になることでもあった。

 茶はその精神的なよりどころを禅に求めた。否、むしろ「茶禅一味」ということばが示すように、茶と禅とは最初から分かち難く結びついていたともいえる。「点茶は全く禅法にして自性を了解する工夫なり」(『禅茶録』)。心を静めて自己を.発見し、悟りを開く道であって、精神修養、仏道修行の一方法と考えられていた。禅宗の中でも、臨済宗、特に大徳寺と茶の結びつきは深い。これは「茶の湯」の祖といわれる村田珠光(1502没)が、大徳寺の一休について禅を学んだことにもよる。「茶の湯」は珠光から紹鷗(1555没)を経て千利休に至って大成されたが、千利休もまた、大徳寺と深いつながりがあった。彼は大徳寺に三門を寄進し、その楼上に自分の本像を置いた。このことが秀吉の怒りをかった。三門を出入りする、秀吉を初めとする貴人を足下にふみつけるとは無礼だというわけである。このことがもとになったのか、利休は秀吉に切腹を命ぜられ、天正19年(1591)70歳で自害した。利休の墓は、大徳寺山内聚光院にある。

 大徳寺山内には、一体を開祖とし、村田珠光の作庭と伝えられる庭を持つ真珠庵。竜安寺の石庭とほぼ同時期に造られ、竜安寺の石庭と並び称される石庭のある大仙院など、数多くの塔頭寺院があるが、その多くは、江戸時代初期の大名によって創建されたものである。

 高桐院は、細川忠興が慶長年間に創建して、細川家の菩提寺とした。忠興は利休の茶の弟子であった。利休から形見としておくられた石灯籠を自分の墓石とし、妻ガラシヤ夫人(明智光秀の娘)とともに、高桐院の墓地に葬られている。高桐院の庭は十数株のカエデと、一基の石灯籠が立つだけの庭であるが、無雑作に見えながら、いい知れぬ趣きがある。

 孤窪庵は、小堀遠州の創建になる。江戸時代随一の作庭家として知られる遠州が、自分のために自由に造った庭で、遠州流の茶祖と仰がれる彼の芸術の最高の境地を示している。本堂の北にある茶室は「忘筌」と名づけられている。これは魚を取れば筌(魚をとる道具)を忘れる、目的を達成すれば手段を忘れるという意味である。やや技巧的にすぎるきらいもあるが、江戸時代を代表する茶の庭であることは疑えない。