京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

寂光院と勝林院

 平家没落の哀史を語る『平家物語』の巻末をかぎる「灌頂の巻」の女主人公は、平家一門の悲しみを一身に集めた観のある建礼門院である。

 文治2年(1186)4月20日すぎ、後白河法皇鞍馬寺に参詣するように見せて、そっと都を出た。行先は大原、建礼門院に会うためである。静原から江文峠を越えて大原の里に出ると、「西の山のふもとに一宇の御堂あり。すなはち寂光院これなり。ふるう作りなせる前水、木立よしある所のさまなり。『甍やぶれては霧不断の香をたき、枢おちては月常住の燈をかかぐ』とはかやうの所をや申すべき」─『平家物語』の有名な一節である。

 建礼門院が涙ながらに法皇に述べたことば。「私は仏の説きなさった六道とやらを生きながらにてすべて体験した。清盛の娘として生まれ、安徳天皇の母となり、一天四海は自分の思いのままであった。明けても暮れても楽しみ栄えた頃は、『天上』界の幸もこれほどではあるまいと思われた。ところが『人間』は、愛する者に別れ、憎しみ合う者が会わればならないとか、それも残るところなく体験させられた。源氏に追われ西海の船上で暮したときは、食べ物に不自由し、たまたま食べ物はあっても水がなくて食べられない。大海の上にいながら飲めない苦しみは、『餓鬼』の苦しみだった。しかも、絶え間のない戦いの声、大刀の音、矢の響き、それは『阿修羅』の世界だ。戦い敗れて、親は子に、夫は妻に別れる。ことに、小さい手を合わせて念仏しつつ、海に沈んで行った我が子、安徳天皇の姿は、今もなお忘れられない。人々の泣き叫ぶ声、それは『地獄』のすさまじさだった。また、死にきれず波に漂っているのを、心ならずも源氏の荒武者に捕えられてしまった。それからの毎日は『畜生』の生活としか言いようがない」

 この六道というのは、この世界を十に分けたとき、声聞・縁覚・菩薩・仏の四つの悟りの世界に対して、迷いの世界を意味するものである。生きながらにして六道をかけめぐった建礼門院は、まことに数奇な運命にもてあそばれた女性であらたといえよう。 しかし、この大原にやっと安住の地を見いだし、ひたすら我が子安徳天皇の菩提をとむらい、仏の救いを念じ続けた女院は、建久2年(1191)2月中旬「西の空に紫雲たなびき、異香室にみち、音楽空に聞こえる中で弥陀如来に迎えられ、この世を去り、永遠のやすらぎの世界に往生した」と『平家物語』は伝える。

 この源平の争いに、世の無常を感じたのは、勝者の源氏方にとっても同様であった。一ノ谷の戦いに我が子と同じ年頃の若武者平敦盛を心ならずも討ち果たした熊谷直実は、その菩提をとむらうために出家して法然の弟子となった。当時、法然の説く浄土念仏の教えに不信を'抱いた旧仏教の学僧たちが、法然に討論を申し入れる。世に「大原問答」と呼ばれるこの討論会は、文治2年(1186)、大原勝林院で開かれた。熊谷蓮生坊直実は、師に万一のことがあってはと、法衣の袖になたを隠し持って師に随行した。関東武者の心を捨てきれない蓮生坊を見た法然は、その非をさとしてなたを捨てさせる。今も勝林院の前に「なた捨て藪」と伝える跡が残っている。この時、法然の教えに感動した天台座主顕真は、勝林院で念仏の生活に入った。
寂光院