京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

やすらい祭と葵祭

 比叡山にいた小僧が、桜の花が風に吹かれて散るのを見て、さめざめと泣いていた。それを見た僧が傍へ寄って、「なぜ泣くのか。花の散るのを見て泣きなさるのか。桜ははかないもので、このようにすぐ散ってしまうのだから、そんなに泣きなさるな」となぐさめた。僧は小僧が無常を感じて泣くのだと思ったのだ。小僧は「花が散るのは別に悲しくない。ただ、こんなに風がはげしく吹くと、父の作っている麦の花が散って実りが少ないだろうと思うと悲しいのだ」と、また声をあげて泣いた。『宇治拾遺物語』の筆者はこの話のあとに「何とも不風流な話である」と感想を述べている。当時の知識人の間では、落花は無常を感じさせるものだというのが常識であった。しかし、農民の間では、花を散らす風の吹き方が、そのまま秋の実りに結びつくものとして、より切実に感じられるのであった。鎮花祭は、花が早く散らないようにと祈るもので、奈良朝以前から、すでに行なわれていた。「高雄寺あはれなりけるつとめかな やすらひ花とつづみうつなり」と西行の歌にもあるように、京都でも各地で行なわれていたようだ。「やすらい花や(花よ散るな)」と歌うところから「やすらい祭」と呼ばれる鎮花祭の行事は、今も4月第2日曜に、紫野・今宮神社で行なわれている。

 付近の4つの里から、真紅の衣裳をまとい、赤や黒の毛をかぶった鬼の行列が、のどかな鐘や太鼓の音とともに「やすらい花や」と哀調を帯びた歌を歌って今宮神社に集まり、咲きほこる桜の下で乱舞するさまには、土の香りがにじみ出ている。鎮花祭は、花が散るのと同時に、悪い病気も広まると信じられているところから、豊作を祈るとともに悪疫退散の願いもこめて受けつがれてきたのである。

 古代においては、花や青葉は若々しい生命力の現われとして、それを身につけることによって、自分の身に生命力を移そうとした。また、それらを見るだけでも効果があるとして「花見」も行なわれた。今日、私たちが「お花見」に行かないと何か忘れものをしたように落着かないのも、案外こうした民族的風習に根ざしているのかもしれない。

 青葉の頃、5月15日には「葵祭」が行なわれる。「あおい」の若葉を頭につけるところから「葵祭」と呼ばれるこの祭は、貞観年間(859~870)に、すでに現在の形になっていたようで、祭といえばこの葵祭をさすほど親しまれていた。一般庶民が参加する祭礼ではなく、国家の行事として、天皇の使いが下・上賀茂社に参詣する行事で、もともと、「見る」祭であった。

 『源氏物語』にも、この行列を見るために車の置き場所をめぐって争いのあったさまが描かれていて、現代と大差のない混雑ぶりであったようだ。「華麗な王朝絵巻をくりひろげる」と新聞などは表現するのが常であるが、まさしく平安朝の風俗を忠実に再現して、見る人の目を見はらせる。ただ市街地で見ると、どうしても周囲の建物との調和がとれず、意外に貧弱で遠来の観光客を落胆させるようだが、賀茂川堤のケヤキ並木の青葉の下を行く時、行列は生彩を放ち始める。牛車のきしむ音、花傘の下を歩む女人の姿にも、王朝の息吹きがひしひしと感じられるのである。