京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

詩仙堂と曼殊院~江戸時代の文人趣味

 宮本武蔵と吉岡一門の決闘の場で名高い一乗寺下り松から、爪先上りの道を登って行くと、道の右手に一群の竹藪があり、その下に詩仙堂の間がひっそりと開いている。竹におおわれた薄暗い道を入って行くと、現代から隔絶された別世界へと導かれる想いがする。突き当たって左へ曲ると、急に明るくなる。白砂を敷きつめた玄関の前は、暗から明への転換がきわ立っているだけに、なおさら別世界に入った印象が強い。書院に通って、庭を見る。庭はそれほど広くもないし、技巧もこらしていない。きれいに刈りこまれたサツキがなだらかな起伏を見せる。そのむこうは、浅い谷をへだてて山がせまる。手前は掃き目もすがすがしい白砂。初冬なら、石川丈山遺愛のサザンカの老木が白い花びらを散らしている。時おり、下の谷のほうから「カッタンコトン」という添水の冴えた音がひびく。この音によって、かえって静寂感が強められる。

 ふと、何もかも捨てて、このような所で好きな事をして一生をおくってみたいとか、また、このままあてどのない漂泊の旅に出て見たいという想いが浮かぶ。平凡な日常生活からの脱出―それは凡人にとっては生涯かなえられない願いであるかもしれない。それだけに、その願いを果たして、ここに理想の世界をうち立てた丈山に、かぎりないなつかしさを感じるのだ。

 詩仙堂の主、石川丈山(1583~1672)は、徳川家康に仕える武士であった。大阪城夏の陣に、禁じられていた抜けがけを行なってとがめを受け、浪人した。槍一筋で一国一城の主となった時勢は、すでに過去のものとなっていた。33才の丈山は、武の世界から一転して文の道へ入った。家康の政治顧問として、また幕府の思想的な支柱として活躍した林羅山の師、藤原惺窩の門人となり、8年間漢学を学んだのち、広島の浅野家に仕えた。後に朝鮮の使者、権式に「日本の李白杜甫」と賞讃された漢詩文の才能が認められたのである。平和の訪れとともに、漢学が盛んとなり、幕府の政策もあって、各藩では争って儒学者を召し抱えた時代である。それにつれて、中国の文人趣味が流行しはじめていた。俗世間を超越して隠棲し、詩文を作ることを半ば職業とする一方、あらゆる芸能にもたずさわる。たとえ生活は貧しくとも、心の豊かさと自由を失わず、風流の世界に遊ぶ。中世の鴨長明兼好法師と根本的に異なるところは、神仏とも全く無縁な点である。当時、すでに、藤原惺窩の朱子学の影響によって、人間中心の考え方が芽生えていた。丈山もまた、この文人趣味の洗礼を受け、54才で再び浪人し、59才の時、詩仙堂を建て、かねての願いを実現したのである。

 詩仙堂の北、比叡山麓に沿って、曼殊院修学院離宮がある。曼殊院の門跡良尚法親王は、明暦2年(1656)に曼殊院を市内から現在地に移した。良尚法親王は桂離官の造営者・八条宮智仁親王の王子である。規模こそ小さいが、桂離宮、あるいは、ほぼ同時期に造営された修学院に匹敵する構想、意匠で、曼殊院は造られた。庭園は鶴島、亀島を配する神仙庭園で、江戸時代初期、中国趣味の影響によって再び盛んになった様式を伝えている。このほかに、八窓の茶席など、江戸時代初期の文化を代表するものも多い。
詩仙堂
曼殊院