京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

修学院離宮

 豊臣家を倒して天下をわが物とした徳川家康も、征夷大将軍の地位を天皇から授与されなければ、一介の大名にすぎない。官位の授与権は天皇が握っていた。家康は、まず朝廷対策に頭を悩ました。武力を持つ者には武力で戦えばよいが、古代以来、日本の王者として精神的権威を持ち、ある面では民族的信仰の対象でもある天皇に武力は通用しなかった。

 家康は、藤原氏平氏が朝廷に対してとったのと同じ外戚政策をとり、二代将軍秀忠の娘・和子を后として入内させた。武家の娘が皇后となるのは、平清盛の娘・建礼門院徳子以来、450年ほど絶えてなかったことである。元和6年(1620)、14歳の和子は二条城を出て御所へと向かった。嫁入の費用は70万石かかったという。元和9年には、後水尾天皇との間に興子内親王が誕生した。後に8歳で皇位につき、称徳天皇以来850年ぶりの女帝・明正天皇となった皇女である。

 陰に陽に加えられる幕府の圧迫にたまりかねた後水尾天皇は、寛永6年(1629)、退位して法皇となり、比較的自由な立場から政務に参加する一方、江戸時代初期の文芸復興期の一大推進役ともなった。

 後水尾上皇の芸術的天分は、円通寺修学院離宮庭園に遺憾なく発揮されている。後水尾上皇は、桂離宮を造営した八条宮智仁親王の甥に当り、たびたび桂離宮を訪れて、その影響を受けた。しかし、桂離宮が外部から完全に遮断された世界であるのに対し、修学院離宮は、いわば京都盆地のすべてを借景としてとり入れた、開かれた世界である。「借景」とはいうものの、自然の眺めのすべてを庭と考えるような雄大な上ノ御茶屋の庭の構想は、「王者の庭」と呼ばれるにふさわしく、「借景」の概念をはるかに超えている。

 修学院離宮は明暦元年(1624)に着工され、約30年の歳月をかけて完成した。この造営事業には、幕府も協力を惜しまなかった。「あし原や茂らば茂れ萩薄 とても道ある世にすまばこそ」と痛憤をもらして譲位した後水尾天皇の心を慰めようとする意図もあったのだろう。

 修学院は比叡山の西坂本にあり、もとはこのあたリ一帯に延暦寺の末寺があった。修学院寺もそのひとつであったが今はなく、地名にその名を留めるのみである。修学院を流れる音羽川沿いに、古来貴族の別荘が営まれた。谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』で、滋幹が瞼の母に対面する敦忠の山荘も、この音羽川の水をひき入れていた。「権中納言敦忠の西坂本の山荘の滝の岩にかきつけた歌、音羽川せき入れて落す滝つ瀬に 人の心のみえもするかな―伊勢」(『拾遺集』)という歌が残っている。修学院離宮もまた、この音羽川の水をひき入れて利用しているのである。

 比叡山三千坊があった名残りは、路傍の石仏にもうかがえ、修学院離宮内の田にあった石仏2体が、離宮付近の禅華庵に移されている。鎌倉期のものらしい堂々たるもので、わらぶきの特異な山門とともに一見に値する。禅華庵は江戸時代初期に創建された禅寺で、比叡山天台宗)とのつながりはない。修学院離宮へ急ぐ人は、いつもこの無名の寺の門前を素通りするが、この寺のような存在が重なって、初めて古都の美は完成する。
修学院離宮