京都の魅力

古寺巡礼、絢爛たる祭、歴史と文学のあとを訪ねる散歩みち

光悦寺と正伝寺

 徳川家康が、ある時、京都所司代板倉勝重にたずねた。「本阿弥光悦はどうしているか」「元気でおります。ちょっと変わった男で、京都にも住みあきたからどこか田舎へ行きたいなどと申しております」「それなら近江、丹波などから京都へ入る道筋で、用心が悪く、辻斬り、追はぎなどの出るところを与えて一在所つくらせたらどうか」―鶴の一声で、光悦は鷹ガ峰に東西200間、南北7町の土地を与えられた。元和元年(1615)58才の時である。

 光悦(1558~1637)は父祖伝来の家業である刀創の鑑定、磨礪、浄拭を業としていたが、幼い時から刀劔を通じて養い得た審美眼によって、書画工芸にもすぐれた才能を持っていた。彼は鷹ガ峰に一族及び職人たちを連れて移住し、芸術の理想郷をつくったのである。これは、考えようによっては、近衛信尹烏丸光広などの公卿、角倉素庵、茶屋四郎次郎などの富豪と親しく、京都人に強い勢力を持っていた光悦を洛外に追放しようとした、家康一流の策略であったかもしれない。光悦は「日本国中は神の御末にて、皆々禁裏様(天皇)のものなり」と常に言っていたというから、幕府にとっても扱いにくい相手であったようだ。

 それはとにかくとして、光悦は「都にも住みまされりと思ふばかりなり」と、この鷹ガ峰の風光をこよなく愛した。なだらかな曲線を描いて連なる山山を西に近く望み、東に比叡山、南に京の町をはるかに眺める高台は、京都でも風景美に恵まれた場所のひとつである。この地で光悦は、デザイナーというか、ディレクターというか、自分で製作する以外に、俵屋宗達などと協力して、書画・工芸から出版にいたるまでのあらゆる方面にわたって、すぐれた作品を次々と生み出して行った。特に出版物は、『伊勢物語』などの王朝文学、謡曲など日本の古典文学を中心にしていて、当時盛んになっていた漢学に対して一種の抵抗を示している。これも幕府によって奨励された漢学を、天皇に親近感を抱く京都の町衆のひとりとして快く思わなかったためであろう。光悦の住居跡は今、光悦寺になっている。

 鷹ガ峰の東北方約3キロ、舟山の麓の西賀茂に正伝寺がある。鷹ガ峰から西賀茂にかけては、比叡山が最も美しい姿を見せるあたりであるが、正伝寺の庭は比叡山を借景にしている。比叡山を借景にしている点では、幡枝の円通寺と同じであるが、正伝寺は円通寺ほど有名ではない。そのため、訪れる人も少なく、俗塵を離れた山寺の風情を残している。縁側に出された番茶を飲みながら友と語りつつ庭を眺める。中には、寝そべって日向ぼっこをする人もある。何か人の心を温くときほぐしてくれる日常的な雰囲気があって、楽しい庭である。庭はそんなに広くはない。一面に敷きつめられた白砂に、「獅子の児渡し」と呼ばれるサツキの刈込みが、七五三に配置されているだけである。築地塀のむこうに、比叡山が秀麗な姿を見せる。心に泌みる庭である。

 正伝寺は、弘安5年(1282)に現在の地に移された。庭はその頃に造られたものか、本堂を桃山城から移築した慶安年間(1648~1651)のものかは不明である。もし慶安年間とすれば、円通寺の庭園とほぼ同じ時期に造られたことになる。借景式庭園の代表的なものとして一見の必要があろう。